空から届く声
地上には、風がなかった。
それでも灰は動いていた。
崩れた高層建築の谷間を、白い粉塵が細い川のように流れている。レンは防護服の膝を地面につけ、手袋で灰をすくった。粒子は乾いている。だが、指を開いても落ちなかった。
磁気を帯びている。
「停止」
レンが拳を上げると、後続の四人が散開した。
狙撃兵のミナは半壊した車両の陰へ滑り込み、衛生兵のカイは線量計を確かめる。工兵のドーガは背負った電源装置を下ろし、通信士のエリは周囲の周波数を走査した。
誰も理由を尋ねなかった。
地上では、分からないものに近づいた者から死ぬ。
レンは灰を密封袋へ入れた。頭上には赤茶色の雲が空を覆っている。地下都市アトラスで育ったレンにとって、空は見るたびに距離感を狂わせるものだった。
天井がない。
その事実に、身体がいつまでも慣れない。
「線量、基準値の一・八倍」
カイの声が通信機に入った。
「活動限界は?」
「このままなら七時間。汚染域に入れば三時間以下」
「目的地まで二時間だ」
レンは立ち上がった。
アトラスの酸素浄化装置は、あと十七日で停止する。
交換用の触媒炉が眠っている可能性があるのは、旧政府の第六気象観測所だけだった。そこへ入り、装置を回収し、地下へ戻る。簡単な任務だと、ダレス大佐は言った。
簡単な任務に、遺書を書かせる必要はないはずだった。
一行は灰に沈んだ道路を北へ進んだ。
建物の壁には、黒い人影がいくつも焼きついている。核の閃光が人間のいた場所だけを影として残したものだ。子供に見える小さな影の隣で、長い腕を伸ばした影が覆いかぶさっている。
レンは視線を外した。
死者に顔を与えるな。
地上探索兵が最初に教えられる規則だった。考え始めれば足が止まる。足が止まれば、放射線が身体を内側から焼く。
「前方、動体」
ミナの声が落ちた。
全員が伏せた。
百メートル先の交差点で何かが横切った。四本足。大型犬ほどの体格だが、脚の関節が多い。
レンは銃の照準器をのぞいた。
灰の向こうに裸の背中が浮かぶ。皮膚は半透明で、内部に黒い骨格が透けている。頭部には眼球がなく、代わりに細い穴が無数に開いていた。
灰喰い。
放射線環境に適応した地上生物だと教本には記されている。だが、あれを生物と呼ぶべきかについて、研究者たちの意見は一致していない。
灰喰いが頭を上げた。
穴が一斉に開く。
「走れ!」
レンが叫んだ。
灰の中から五体が跳び出した。
銃声が廃墟を震わせる。ミナの初弾が先頭の頭部を砕いた。灰喰いは倒れながらも地面を蹴り、勢いのままドーガへ衝突した。
ドーガが転倒する。
二体目が彼の脚へ食らいついた。
ドーガの身体が重なり、小銃では射線が取れない。ミナは拳銃を抜き、地面すれすれの角度から灰喰いの胴へ接射した。残弾をすべて撃ち尽くす。最後の弾丸が背骨を断った。それでも顎は外れず、防護服の装甲布を噛み潰していく。
「切り離せ!」
カイがドーガの脚部装甲を外した。
ミナが三体目を撃ち抜く。残る二体は銃撃を避け、壁を蹴って左右から迫った。
速すぎる。
レンは一体へ銃口を向けた。もう一体が視界から消える。
エリの悲鳴が上がった。
灰喰いが彼女の背中に乗り、首の防護リングへ爪を突き立てていた。レンは射線を取れない。撃てばエリにも当たる。
ドーガが立ち上がった。
彼は灰喰いの胴体を両腕でつかむと、エリから引き剥がした。防護服を裂かれた右脚から血が流れている。
「撃て!」
レンは撃った。
灰喰いの胸部が破裂し、黒い液体がドーガの面体へ飛び散った。
最後の一体が逃げる。
ミナは追わなかった。
「ドーガ、損傷を見せろ」
カイが駆け寄った。
裂けた防護服から白い蒸気が漏れている。応急密閉剤を吹きつけても、警告表示は消えない。牙は装甲だけでなく、右脚の骨まで達していた。
「歩ける」
ドーガは言った。
「質問していない」
「触媒炉は二百キロある。俺がいなければ運べない」
「その脚では、お前自身も運べない」
カイが鎮痛剤を取り出した。
ドーガはその手首をつかんだ。
「残りを見ろ」
線量計の表示が急速に上がっていた。周囲の灰が戦闘で舞い上がり、防護服に付着している。
ここにとどまれば全員が被曝する。
レンは北側の建物を見た。入口は崩れている。退避には使えない。
南へ四百メートル戻れば、除染可能な旧地下鉄の連絡口がある。だが、戻れば任務時間を失う。ドーガを連れて目的地へ進めば、さらに遅れる。
酸素浄化装置が止まれば、一万二千人が死ぬ。
目の前の一人を助けるために、一万二千人の時間を使えるのか。
「隊長」
ドーガは腰から工具ケースを外した。
レンは受け取らなかった。
「自分で持て」
「俺を連れていけば全員が死ぬ」
「黙れ」
「それは命令か?」
レンは答えられなかった。
ドーガが笑った。面体の奥で、頬だけがかすかに動いた。
「なら、俺から命令する。行け」
その瞬間、エリが顔を上げた。
「待ってください」
通信機から雑音が流れていた。
周期的な信号だった。短い音が三回。長い音が一回。また短い音が三回。
「救難信号か?」
レンが尋ねる。
「違います。音声です」
エリが受信帯域を絞る。砂を噛むような雑音が弱まり、その奥から人の声が現れた。
幼い少女の声だった。
「受信記録、発話者不明で保存します」
エリは入力しかけて、手を止めた。
「嫌いなんです。声に名前がないのは」
「地上では、名前から死ぬ」
レンが言った。エリは記録欄を消さず、発話者名の空欄を残した。
『こちら、第六気象観測所』
一行の動きが止まった。
目的地からの通信だった。
『探索隊へ。北側道路を使用しないでください』
録音ではない。少女は彼らを名指しした。
『灰の下に、兵士がいます』
レンは足元を見た。
白い灰の中で何かが光った。
人間の指だった。
皮膚を失った指先が地面から突き出している。
それが動いた。
「散開!」
灰が一斉に盛り上がった。
土中から軍服姿の人間が立ち上がる。ひとりではない。道路の両側、車両の下、崩れた歩道の隙間から、錆びた銃を持つ兵士たちが次々と姿を現した。
制服は旧政府軍のものだった。
核戦争の終結から四十七年。
彼らの身体は乾き、顔には目も鼻も残っていない。
それでも銃口は正確に探索隊を捉えていた。
最初の発砲で、ドーガの胸が弾けた。
彼は工具ケースを抱えたまま、灰の上に倒れた。
レンは叫んだ。
だが、自分が何を叫んだのか聞こえなかった。
銃撃が廃墟を埋め尽くしていた。




