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-柚希8才-鼻を掠めたその香り

 外に一歩でも出れば、コートを着ていても思わず身震いをしてしまう。そんな日が続く季節。そして僕は寒さで震えながら帰る人たちをビルの中から見つめているのは、随分と久しぶりに残業をさせられているせいである──事の発端は今から一時間前。


 あともう少しで定時だからと、コップに残っていた苦みを増したコーヒーを喉に一気に流し込んで最後の気合を入れていた時、僕の両肩をポンと叩いてきたのは上司。その時点で嫌な汗が背中を伝い始めていたから僕は必死に視線を右に逸らした。


 しかしそれを読んだかのように、ぬるりと目の前に滑り込んでくる上司。「清水さん、わるいんだけど『嫌です、僕の名前がCCにはいってたなんて見てません、しりません』はい、ありがとう。把握してるね」言葉の途中で割り込む僕の必死の抵抗は無意味に終わる。


 諦めたように再度パソコンの画面を見ると、そこにはフル画面で表示されている後輩からのメール。宛先は上司で、一緒に確認してくださいと言わんばかりに僕の名前までCCとして添えられていた。明らかなメッセージが目の前にある以上、僕はこれ以上の言い訳は思いつかず肩を落として頷く事しかできない。


「乗り切ろう、清水さん」

「はぁぁ……い」


 心底嫌ですと言わんばかりの表情で応えた僕は、上司が自分の席に戻るのを横目に思い切り背伸びをしながら目を閉じる。


 それこそ息子の柚希が小学生になる前は、僕の環境なども会社側が考慮してくれて、早上がりや遅出等が許容される事も多かった。しかしそれも息子が8歳になったいまはそれは遠い昔の話。


 僕がかつてそうしてもらったように、だんだんと僕も未就学児の子を持つ社員の急な早退や欠勤、産休の穴埋め対応に駆り出される事も増えてきた。いわゆる"お互い様"とやらだ。


──そんなわけで悪魔と契約をした僕は、現在上司と二人きりでオフィスに取り残される事となった。


 メールに添付されていた書類の朱書き。赤文字で書かれた内容は決して難しい内容でもないしどちらかと言えば簡単なほうだった、その量を除いては。定時を軽く二時間は過ぎた、無駄に広いオフィスには僕と僕以上に深刻そうに頭を抱えて謝罪のメールを作りこんでいる上司だけ。


 僕の息子はひと時も目を離してはいけないような年齢でもないし、同年代の子と比べても優しく賢い。しかしだからと言って一児の父親としての不安が取り除けるかと言われたらそれは違う。


 いまこの瞬間も家に強盗がきたら?柚希になにかあったら?……と考えだしたら止まらない思考。きっともしも柚希になにかあったら僕はもう二度と立ち直る事なんてできない。


 「清水さんはさ、もう少しだけ後輩に厳しくしてもいいんじゃないかな」


 ふと上司から声をかけられて思わず口をつけていた缶コーヒーの中身をぶちまけてしまいそうになる。唐突なその言葉にすこしばかり怪訝そうに斜め前の上司をみるが視線は合わない。


 「後輩に?ですか……」

 「今日だって出先にいた事の発端の彼が戻ってきていれば、もう数分早く終わってたのに、直帰させただろ?」


 否定のしようもない事実に僕は思わず唇を結ぶように黙ってしまう。でも別に間違ってたとは思えない。後輩の出先は家から近いことは前々から知っていたし、あの時間でここまで戻ってきたら帰宅するのにだって一時間はかかる。せっかくの華の金曜日だし、合コンを心待ちにしていた彼に今から会社に戻って始末を手伝えなんて鬼みたいなことなどできる訳がないじゃないか。


 「まぁ、べつに責めるつもりはないよ。ただ、君のやさしさで、息子君を独りにさせすぎるなよ?子どもの一日は大人の一日よりも何倍も長いんだからさ」


 その言葉に僕はゆっくりと頷いてパソコンの電源を落とした。するとさっきまで下を向いていた上司がハッと顔をあげて僕の事を凝視してきたので「お先に失礼いたします」と伝え、カバンと共に席を立ちあがる。するとちょっと掠れた、上擦った声が聞こえてきた。


 「ちょっと清水さん、終わって、え」

 「終わって既にサーバーに入れておきました。あとは客先に送付するだけです」

 「いや、二人きりのオフィスなら普通、二人で一緒に」

 「少しでも独りにさせたくない息子がいますので」


 そう残して僕はオフィスを後にする。背後に聞こえる悲壮めいた声をBGMに、そっと口角があがるのを巻いた紺色のマフラーを軽く引っ張って隠しながら。入社して日が浅ければこんな事、恐ろしくてできなかっただろう。


 それからオフィスの外にでた僕は白い息を吐きだした。なんだかんだいつもより二時間も遅い帰宅。職場と家まで徒歩30分もあれば帰れるのはやはり有難い。正確にはバスを使えばもっと早いのだか、バスを待つ時間のほうが勿体ない時もある。この時間帯なら尚更だ。


 いつもならお風呂に入ってご飯を食べている時間だから、きっと家で待っている柚希もお腹を空かせて待っているはずだ。そう考えると自然と踏み出す足も早くなる。それから家の冷蔵庫の中身を思い出すように月を見上げた。


 今日の晩御飯は冷蔵庫のありもので作った野菜炒めと、みそ汁。それから確かまだ余っていた漬物と冷凍していた白米に決めた。本当は常に温かいご飯をたべさせる事が出来たらよかったのだが、それが難しい今日みたいな日に冷凍保存していた食材に助けられてしまうのもまた事実。


 妙に坂の多い静かな帰路のなかぶつぶつとこれからの段取りを呟いているとあっという間にマンションの前に到着。運よくエレベーターが一階にあったので、すぐに乗り込んで七階のボタンを押す。なんとなく夜のエレベーターはホラー番組の影響で怖さを感じる。だから僕は絶対に背後の鏡を見ないし、もちろん乗り込むときだって鏡をみないように壁側をみる。各階を通り過ぎる際に扉のガラスから見える光景も何となく怖いから視線も地面に落としてやりすごす。


 そんな最後の一仕事を終えて部屋の前に辿りついた。カバンに忍ばせていた鍵を取り出してドアノブを回したその途端──僕の鼻を味噌の良い香りがふわっと掠めた。驚いて靴を縁にひっかけるように脱いでリビングにバタバタと向かう──そしてリビングで見た光景に僕の目尻がじわっと痛くなった。


 あぁもう、まったくこの子は。


 なんと息子の柚希が台所にいたのだ。小さいころに使っていた椅子を踏み台に火の前に立っていた。僕のエプロンを、必死に自分サイズに調整してから身に着けたであろう不格好な息子が。どこで学んだのか恐らくバンダナの役割をしてるであろう頭は可愛らしいことになっていた。だってその巻き方がお風呂上がにする巻き方だったから。


 しかし何から話しかけるか思考をフル回転してもなにも見通しが立たず、思考することを放棄した。この八年で飽きるほど経験してきた感情にはもう既に慣れたものだ。子は大人の想像する何倍も成長が早いから困ったものである。先刻の上司の言葉を思い出しながらそっと笑みを浮かべた。


 「柚希、柚くん」


 唇をきゅっと結びながら名前を呼べばようやく、こちらに気付いたであろう柚希がぱっと振り向いて「おと~遅いよ~」なんて頬を膨らませて手に腰に当てる。あたり一面に飛び散った味噌や、ねぎ。それからシンク山盛りの食器をみて言いたいことは山ほどあるにはあるが、今日ばかりはそれを指摘するのはあまりに無粋なことだろう。


 「夜ごはん、作ってくれたのか?」

 「へへーん!うん!おと~のまねしたの!みて!おいしくなったよ!」


 本当にどこで覚えたのか、小さなお皿にみそ汁をよそった柚希がそれを僕に差し出してきたから受けとろうとした、その瞬間。向こうからも力が加わってきたことで危うくひっくり返してしまうところだった……柚希が背伸びをしながら斜めに伸びてきて口をつんのめらせるように、ふううううう、ふううううと冷まし始めたから。


 満足するまで冷たい息をお皿に吹きかけた柚希はようやく、ぼくにそのお皿を渡してきたので今度こそ受け取って試飲する。「んっ……!」いったいどれほどの味噌を入れたのか、舌が痺れるほどのしょっぱさ。だけど、それでも僕はあまりの美味しさに声を出して笑う。


 それから腕を両目に押し当てながら「おいしかったよ、よくできました」なんて言えば、また「へへーん」と自分の鼻を触って自信ありげに頷く。顔いっぱいに味噌を飛ばしているそのどや顔は、テレビで見る見飽きた変顔なんかの何倍も面白い。


 「あとね、ごはんも!」

 「そうか、そうかぁ」


 その言葉にびっくりとして炊飯器を見ると、白い蒸気がやさしく漂っている。みそ汁も沸騰していたからそっと消して、勢いよく息子を抱き上げるように椅子から降ろした。本当ならそのまま胸まで勢いよく抱っこできたらよかったのに、予想よりも重くて中途半端な抱き方になってしまった。


 なんとも言えない気まずさを頬を指でぽりぽりと掻く事でごまかしながら僕は食器棚に手を伸ばして斜め下にいる息子に「それじゃあご飯にしようか」と伝えた。するとすごく元気に「らじゃああああ」なんて元気すぎる言葉が聞こえてきたから僕は思わず目をほそめる。きっとまた僕の顔には幸せな皺が増えた。本当に君はどこまでも優しい子だよ、柚希──




【息子が僕の為に作ってくれた初めての手料理の味をきっと僕は忘れない。だって今日の晩御飯は過去一の食事に次ぐ食事になるんだから】

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