-柚希4才-おばけなんてないさ
お風呂上がり、僕はマンションのベランダに設置したパイプ椅子に腰掛けながらタバコを口に加えていた。
フゥーっと肺に溜め込んだ煙を吐き出そうとして……吐き出そうとしたその瞬間「あっはは!」と大きな声が家の中から聞こえてくる。煙を上手く吐き出せなかった僕は「げほっげほっと」情けなく咳き込みながら、目尻に溜まった涙を拭ってそっと部屋の中を窓越しに覗き込む。
「……ん、?」
思わずゾワッと震えてしまう。 お風呂で温めたはずなのに一瞬で鳥肌になってしまう全身。何故ならば、リビングで電車のおもちゃを広げながら遊んでいたハズの4歳になる息子が一点を見つめながら無邪気にお腹を抱えて笑っているからである。めっぽう楽しそうに。
まるで、そこに誰かがいるかのように笑い転げているじゃないか。 ねぇほんとにまって、本当に待ちなさいよ柚希くん。と、内心で息子を諭しながら深呼吸を1つ。
「すーはー……すーーはー……すーーーーーーはッッッげほげほっ」
それから馬鹿みたいに咳き込むのが僕である。 もしかしなくてもその現象は、ねぇ? ほら、幼い子ほど見えるものがあるとか、なんとか言うじゃないか。ガクガクと震える膝を両手でバンッと叩きつけて、ブルブルと震える手のひらでベランダのドアに手をかける。
サンダルを脱ぎ捨てて、冷たい床にぺたりと足裏を床につけて室内へ滑り込む。それから、より一層に大きく聞こえる息子の笑い声に僕の唇は震えた。
一人でおままごとをしているならまだしも、柚希の言葉を聞くかぎり「なあにしてるのー」「えへへ」「あのねー、あのねー」など、明らかに誰かと話しているのである。僕は表情を引き攣らせたまま、柚希の肩を1つ、ポンっと叩いた──その瞬間。
ピンポーン、ピンポーンとチャイムが押された。予想外のアクションに僕の心臓がドックンと震え上がって、それについて行くかのように遅れて肩がどっと揺れて「うわぁぁあぁぁあぁぁぁぁぁあぁ」と叫んだ。
……もう、僕の心は限界である。息子の前であるとか、大人だとか関係ない。とりあえずもう、一心不乱に飛び跳ねて頭をゴンっと壁にぶつける。
「っいてて「うわあぁぁぁっっ」こんどはなぁんだっ」
途中で聞こえてきた、もうひとつの幼い子の叫び声に変に間延びした声で問いかけてしまう。 それから声の持ち主である柚希のほうを向くと……僕の方を見て満面の笑みでケラケラと笑っているではないか。どうやら僕の叫び声を真似しているらしい。
「な、なにさ柚希くん。 そんなにおと~……ッッッ!」
ちょっと落ち着きを取り戻して声をかけようとすればもう一度チャイムが鳴らされて、何も学習してなかった僕はもう一度肩を激しく跳ね上げて、ついでに唇まで噛んでしまった……イテテ。
とりあえず、チャイムを無視し続ける訳にも行かずあわててドタバタとリビングを少し曲がった先にある廊下を小走りで進んで、鍵を開ける。目の前にいたのは回覧板を手に抱えたお隣さんだった。
「清水さんこんばんは~回覧板もってきたわ……それにしても元気ね~」
「はは……うるさくしてすみません」
「いいのよ~いいの。 あ、柚希くんもこんばんは」
あまりにも恥ずかしい醜態を見せてしまったかもしれない現実にドギマギしながら返事をしていると、ご近所さんの視線が僕の後ろに回る。未だ腹を抱えて笑っている柚希も僕についてきていたらしい。 もういくらでも笑いなさい、とため息を1つ。そして改めてご近所さんにお礼をひとつ言って回覧板を受け取る。
「それじゃあ失礼するわね、柚希くんもバイバイ」
「ん!またね~!!」
そして会釈しながら、僕は柚希の手を引いてリビングまで戻った。
「おばけなんてないさ……おばけなんてなーいさ」
「おと~それなあに」
「なーんでもなーいさ」
柚希の質問に答える余裕は今の僕にある訳なんてない。
【何も悪いことはしないので、どうか僕の前には現れないでください、おばけさん】




