献歌アイビー
私のお姉ちゃんは不器用な人だった。
勉強は苦手で、高校のテストでは赤点こそなかったものの、平均点に届いたことは1度だってなかった。
運動神経はいい方だったが、それを扱うセンスがなく、よくドジをして周りの人を困らせていた。
勉強も運動もできないお姉ちゃんは、いつだって笑っていた。
お母さんに勉強のことでガミガミ言われている時も、お姉ちゃんのドジのせいで試合に負けたと友達に責められている時も。
お姉ちゃんは笑っていた。
私はそんなお姉ちゃんのことが大好きだった。
私は人並み以上に勉強も運動もできて、お姉ちゃんからは「いいな~」とも言われていた。だけど、私はお姉ちゃんのようにいつも笑うことはできなかった。
だから、私はそんなお姉ちゃんに憧れていた。
しかし、そんなお姉ちゃんにもたった1つだけ、笑わないものがあった。
それは歌だ。
お姉ちゃんは歌を歌うことが大好きで、よく歌を歌っていが、お姉ちゃんは大好きな歌からさえも愛されなかった。
お姉ちゃんが歌を歌えば周囲にいる人は嘲笑して、お姉ちゃんがリズムを取れば周囲にいる人は違和感から首を傾げた。
悲しいことに、お姉ちゃんは唯一好きだったことすら上手にできなかった。
そんなお姉ちゃんは歌にだけは真摯向き合い続けた。歌について何か言われたり、笑われたりしたら怒った顔をして言い返した。
しかし、どれだけ努力を重ねてもお姉ちゃんの歌は上手くなることはなく、聞くに堪えないものだった。
そして、あの日お姉ちゃんは自分の部屋で歌を歌い上げた後、いつものように歌を聞かされた私に笑いかけてこう言った。
「私は自分の好きな物すらろくにできない」
お姉ちゃんは乾いた笑みを浮かべていた。
信じられなかった。
あのお姉ちゃんが歌を歌えないことを自嘲するなんて想像もできなかったから。
「……そんなことないよ!」
私は声を荒げてお姉ちゃんを励ました。
理由の半分は同じ血を引いている姉のことを想って、もう半分は私が憧れたお姉ちゃんがどこかへいなくなってしまうような気がしたから。
ある種自分勝手に発言した言葉に、お姉ちゃんは口を噤んだ。
そして、またいつも通りのへらへらとした嫌な笑みを浮かべる。
「お姉ちゃん……?」
「ごめんね。心配かけて。もう大丈夫だから」
嗤っている。
あのお姉ちゃんが歌を歌えない自分を心の底から嗤っている。
そんな彼女の表情を私は許せず、カッとなった私はお姉ちゃんを睨みつけた。
「……あ、かり?」
私の視線に気が付いたお姉ちゃんは戸惑いながら私の名前を呼ぶ。
それでもお姉ちゃんはまだ嗤っていて、私はお姉ちゃんの肩を力強く掴んだ。
「ふざけないで!」
私は自分に瓜二つのお姉ちゃんの顔を睨みつけながら叫んだ。
「私のお姉ちゃんは……そんなこと言わなッ」
「ごめんね」
私が言い終える前にお姉ちゃんは私を抱きしめた。
お姉ちゃんの顔は見えなくなり、その顔が嗤っているのかいないのか分からなくなってしまう。
「……お姉ちゃん?」
私がお姉ちゃんに呼びかけると、お姉ちゃんはゆっくり私から離れていく。
お姉ちゃんは俯いていたため、その顔はよく見えなかったが、その表情には陰りがあり、顔色が悪いように見えた。
「お姉ちゃん、顔色割るけど大丈夫?」
私は恐る恐るお姉ちゃんに声をかける。
私の声を聞いて、お姉ちゃんは顔を上げる。
お姉ちゃんは笑っていた。しかし、その笑みはどこかニヒルなものであり、それを見た私は自分の心臓が不規則になって行くのを肌で感じた。
「大丈夫だよ、朱莉。お姉ちゃんちょっとコンビニ行ってくるけど欲しいものとかある?」
「う。ううん。大丈夫だよ……」
「……そっか。それじゃあ行ってくるね」
不自然なほどに元気になったお姉ちゃんは、そのまま部屋を飛び出していった。
私はお姉ちゃんのことを心配しながらも、元気になったならそれでよかったと思っていた。
しかし、私はあの時追いかければよかったとこれから先後悔し続けることになる。
あの後、お姉ちゃんは家に帰ってこなかった。
そして、翌日の夜に家の近くにある黒い海岸で冷たくなったお姉ちゃんが発見された。
数年後、私はお姉ちゃんの享年と同じである16歳になっていた。
あれから色々なことがあった。
お姉ちゃんは桟橋から足を滑らした事故死として処理されたが、どうしてあの夜に桟橋にいたのかは未だに分からない。
不器用な姉だったが人から愛されていて、お姉ちゃんの葬儀には多くの人が涙を流していた。
お姉ちゃんが亡くなってからは無気力だった私たち家族も、ようやく立ち直ってお姉ちゃんのように色々なことを頑張り始めたことだった。
「間に合うかな……」
現在、私は駅前のビル街を走っていた。
塾帰りの私は左手首に着けてある小さな時計に目を落とす。
後数分もしたら電車が来てしまう。明日提出の課題が終わっていない私は、できるだけ早く帰りたかった。
そう思って私は走っていた。
そして、私は駅が視界に入り間に合ったことに安堵して表情を緩めた。
「~~♪」
そんな私の耳にとてもきれいな鼻歌が届いた。
私は走る足をゆっくり止めて、鼻歌が聞えてきた方を見つめる。
駅の入り口の近くに小さなベンチがあり、そこに彼女は座っていた。
ベンチに座っている彼女の膝にはアコースティックギターがあり、彼女はバケットハットを深く被っていた。
彼女はチューニング中なのか、適当に弦を弾きながら鼻歌を歌い続ける。
その声がどこか聞き覚えがあった私は、彼女に一歩近づいてしまう。
「……もっと、近づいていいよ」
「え」
ギターを持った彼女は私に対し、そう優しく声をかけてきた。
私は驚きつつも彼女の言う通り近づいていき、彼女の正面で立ち止まった。
「……あ、あの……何をしているんですか?」
「ん? 弾き語りだよ。知らない?」
私と雑談しながら、彼女はギターを小さく弾き続ける。
弾き語り。それは1人で歌と演奏を同時に行うパフォーマンスのことだ。しかし、知識としては知っていたが、都会とは決して言えないこの辺で弾き語りをする人はほとんどおらず、私は初めて弾き語りを見た。
「知ってます……、だけど見たことがなくって」
「あ~、確かに。私も1回しか見たことがないな……それに、私も今日初めて路上で歌うし」
「えっ、そうなんですか?」
「そうそう。実はめっちゃ緊張してて手が震えてる」
落ち着きを払っている彼女の様子からは初めてやる人とは思えない雰囲気があった。
しかし、よく見るとピックを持つ彼女の右手は小刻みに震えていて、彼女の言葉に嘘偽りがないことが分かる。
「よし、始めるか」
彼女は声を張り上げてそう言った瞬間、駅に電車が到着する。
彼女はその音を聞いてから深呼吸を何度も繰り返した。
ガタンッ、ガタンッ!
大きな音を立てながら、電車は走り去っていく。
私は電車が走り去っていくのを見て課題の事が脳裏によぎるが、そんなことよりも目の前にいる彼女のことが気になった。
そして、電車が完全に走り去ると、彼女はゆっくりと口角を上げた。
「あなたの影を見つめている~♪」
その瞬間、私の意識は彼女の歌に奪われた。
彼女の歌声はとてもきれいだった。
多くの人が溢れかえる騒がしい夜の街に、彼女の歌がどこからか吹いた風のように響き渡った。
彼女はゆっくりと目を開き、そして私に一瞬笑いかけてからギターを鳴らした。
「私は動けないままで~♪」
彼女の歌う歌は聞いたことがない歌だった。メロディはとても悲しくって、ゆったりとしたテンポだった。歌詞はどこかへ旅立ってしまった片思いの相手に対する別れの歌で、彼女はその歌を自分の事のように歌っていた。
………………。
…………。
……。
「私、愛してるから~♪」
数分後、彼女は見事にその歌を歌いきり、ギターを弾く手を止めた。
いつの間にか彼女の周りには会社終わりのサラリーマンや塾帰りの学生で溢れかえっていて、私たちは一斉に拍手を彼女に送る。
私の隣にいたサラリーマンは彼女の歌を聞いて何かを思い出したのか静かに涙を流していた。
「いや~、ありがとうございます」
彼女は落ち着いた様子で、ベンチの横に置いてあるスポーツドリンクを口にした。
喉を潤した彼女は再びギターを構えなおして私たち観客に視線を向ける。
「えっと……。さっきの曲は私が作った『献歌』という曲です。楽しんでいただけたら幸いです」
彼女がそう口にした瞬間、私は息を呑んだ。
私は音楽には詳しくないが、先ほどの曲はプロが作ったと勘違いしてしまうほど完成度の高い曲だったため、実際に目の前にいる彼女が作ったと知り、驚いてしまった。
私と同じ動揺を他の人たちも感じているようで、誰かが小声で彼女のことを褒めたたえていた。
「次は何歌おうかな……。そうだ、ねぇ君歌ってほしい曲とかってある?」
「え、わ、私!?」
唐突に彼女は右手で持っていたピックを私に向けながら、そう質問してきた。
慌てた私は声を裏返して驚きつつ、必死に頭を回転させる。
「じゃ、じゃあ最近はやってるアイドルの……」
私は友達が口ずさんでいた曲を思い出して、彼女に要望を出す。
曲名は思い出すことができなかったが、有名だったので彼女も知っていたのかすぐにギターを構えなおした。
「これかな?」
そのまま、彼女は私が思い浮かべていたサビの一部を弾いて見せた。
「あ、はい。合ってます!」
「よし、それじゃあ次はこれを歌おうか」
そう言いながら、彼女は姿勢を正して目を閉じる。
そして、不気味なくらい口角を上げて見せると、ギターを強く弾いて歌を歌い始めた。
先ほどまで静かな曲を歌っていた彼女とは別人だと錯覚してしまうほど、彼女はキュートでアグレッシブに歌を歌う。
若い世代の人たちはこの曲を当然のように知っていて、体を揺らしながらリズムを取り始める。一方でこの曲を知らない人も分からないなりに楽しそうに彼女の歌を聞いていた。
しばらくすると、彼女はアイドルの曲を歌い終えた。
それからの彼女はすごかった。
曲が終わる度に別のお客さんに声をかけては、そのお客さんが好きそうな曲、もしくはリクエストされた曲を即座に弾いた。
J-POPやロック、アニソンやボカロなど若い世代に人気な音楽だけではなく、演歌や昔のアイドル曲も彼女は見事に歌い上げた。
そんな彼女に私たちは魅了されていき、だんだんと彼女の歌を聞く人も増えて行った。
そして、1、2時間経った後彼女は初めて咳払いを1つした。
「よし、それじゃあ今日はこれで終わりにしよう」
彼女がそう口にすると、私たちは少しだけ悲しくなり目を伏せた。
「そんな悲しい顔しないでよ。機会があればまた会えるから」
彼女はそう言いながら、私たちに笑いかけた。
そして、彼女はギターを地面に置いていたケースにしまおうとする。
「あ、待ってくれ! お金!」
そんな彼女に対して、1人のサラリーマンが千円札を持って彼女に声をかける。
しかし、彼女はそんなサラリーマンに対して、首を横に振った。
「……私の歌にそれを受け取る資格はないよ」
「で、でも」
悲しそうにそう告げる彼女に、サラリーマンは困り顔で眉をひそめる。
そんなサラリーマンを明るく笑い飛ばし、彼女は口を開いた。
「じゃあ、そのお金はどこかの報われない子供に募金してあげて」
その言葉は変に善人を気取っているわけではなく、彼女の本心であることが伝わってきた。
「わ、分かった」
彼女の言葉を聞いて納得したサラリーマンは手にしていた千円札を財布の中に閉まった。
それを見た彼女は満足そうに頷いて、ギターをケースにしまう。
「ほら、もうそろそろ電車が来るんじゃない? 帰った、帰った!」
彼女は大きく手を動かして、観客たちを駅の方へ誘導する。
お客さんは拍手をしたり、彼女に直接感謝を伝えたりしながら改札を通っていく。
「君は帰らないの?」
ギターケースを背負った彼女は、私に声をかけてきた。
「あ、いや、帰るんですけど……」
「?」
彼女は不思議そうな顔をして私の顔を見つめる。
そんな彼女に、私は聞きたかったことを質問した。
「あ、あの……お姉さんの名前ってなんて言うんですか?」
私の質問にお姉さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした後、すぐに笑顔に戻った。
「そうだな……ちょっと待ってて」
彼女は何かを考えるように右手を顎に当てて考えるポーズをする。
そして、彼女はその顔から笑みを消して、名前を教えてくれる。
「アイビー。それが私の名前だよ」
アイビーと名乗った彼女はとても清々しい顔をしていて、思えばあの時から私は彼女に恋をしていたのかもしれない。
アイビーさんとの奇妙な関係は1年経っても続いていた。
アイビーさんは毎週金曜日の夜に駅前で歌う。元々金曜日に塾があった私は無理なく彼女の歌を聞くことができた。
お母さんは帰りが遅くなった私を心配していたが、事情を説明するとしっかり連絡をすることを条件に彼女の歌を聞くことを許可してくれた。
「ふぅ~」
「お疲れ様です。アイビーさん」
今日も路上ライブが終わり、疲れから息を荒げた彼女に私は駆け寄った。
「今日も来てくれたんだ。幡谷ちゃん」
「はい! あ、あと私の事は名前で呼んでも……」
「え~、だって幡谷って苗字可愛くって好きなんだもん!」
ギターをケースにしまいながら、彼女は悪びれもせずそう言った。
そんな彼女に不満を訴えるために頬を膨らませたが、アイビーさんは私の頭を軽く撫でて笑い飛ばした。
アイビーさんは性別が同じで年齢が近い私のことを気に入っているのか路上ライブが終わった後、毎回のように私に声をかけてきてくれた。そして、1年経った今ではお客さんがいなくなった後に、私から声をかけるのが習慣になっていた。
「それじゃあ、行こうか」
「はい!」
彼女はギターを背負って私に声をかける。
私はアイビーさんの背中を追いながら駅とは真逆の方向へと向かっていく。
数分歩けば私たちは駅前にあるコインパーキングに着いていた。彼女は黒い軽自動車にカギを向けてロックを解除する。
そして、いつものように彼女は後部座席にギターを積み、自分は運転席に私は助手席に座った。
私が乗り込んだのを確認したアイビーさんは、エンジンをかけて慎重に発進する。
「アイビーさんって優しいですよね」
「え? そうかな」
「はい・だって私を毎回家まで送っててくれるじゃないですか」
「……あ~、まぁさすがに法律上問題ないっていっても未成年をこんな夜中に1人で帰すのは気が引けるしね」
私が住んでいる県では高校生は午後11時までだったら1人で外出してもいいことになっている。そして、アイビーさんの路上ライブは基本的に午後10時前後には終わるので、私は法律上最後まで彼女の歌を聞いていても問題ない。
しかし、こんな夜中に未成年が1人でいるのは問題だと考えたアイビーさんは、私の家まで私を車で送ってくれるようになったのだ。
「十分優しいですよ。普通見ず知らずの子供が困っていても誰も助けないですよ」
「……そうだね。君の言う通りだ」
私は他の人を下げながら、アイビーさんを賞賛する。
それを聞いた彼女は少しだけ不機嫌に声色を低くしながら、私の言葉を肯定した。
何か怒らせてしまったのだろうか。
そんな不安が私の胸を駆け巡る。
しかし、彼女はすぐにいつものような笑みを浮かべて、私に問いかけてきた。
「……幡谷ちゃんは困っている人がいたら助けるタイプ?」
笑顔の彼女の口から出てきたのは少しだけ重たい質問だった。
私は彼女の質問を少し考えた後、首を横に振った。
「……助けようとする勇気はないと思います」
「……そう……だね」
私の冷たい回答に、彼女は戸惑いながらも私の言葉を受け入れた。
「最低ですよね。私って」
私は自虐気味にそう彼女に言うと、彼女は何かを考える様な間を置いた後、首を縦に振った。
「うん、最低だ。でも人間ってそういうものでしょ? 私も含めてさ」
「そんなことないです! アイビーさんはいつも優しくって、私にとっては憧れの人で……」
アイビーさんは最低じゃない。
私はそれを伝えたくって、慌てて言葉を紡ぐ。
一方で私たちを乗せた車は赤信号に捕まってしまい、ゆっくりと停車した。
彼女はブレーキペダルを踏んだまま、私の顔をじっと見つめる。
「アイビーさっ」
次の瞬間だった。
彼女は突然自分の顔を私の顔に近づけて、そのまま唇を重ねた。
彼女の柔らかい熱が伝わって、私の体は驚きからか動かなくなってしまう。
どれだけの時間が経っただろうか。
一瞬にも永遠にも感じる時間の後、彼女は酸素を求めるように息を切らしながら、私の唇から離れて行った。
「……ほら、最低でしょ?」
そう言うアイビーさんは自信満々なのにどこか虚無感に満ちた瞳で私を睨みつけていた。
私は彼女の熱が忘れることができなくって、右人差し指を自分の唇に当てた。
「……私は未成年の子供の恋心を利用して、自分勝手にこんな酷いことができる人間なんだ。これを最低って呼ばずになんていうの?」
彼女は私が知っている彼女とはかけ離れていた。
私が知っている彼女は浮世離れをした誠実さを持った人だった。幻想的でどこか儚くって、それでいてパワフルで活力のある不思議な人だった。
しかし、今私の目の前にいる彼女は違った。彼女の瞳はどこか怯えているようで、とても弱々しかった。端麗な顔には得体の知れない醜い影があり、生物的な恐怖を私は肌で感じ取っていた。
「……私の気持ちを知っていたんですか?」
信号機は青に変わり、アイビーさんは車を走らせる。
そんな彼女の横顔を見ながら出てきたのは、私の気持ちに関することだった。
私は彼女が好きだ。
大人びている彼女の色香は子供の私にはないもので、私は彼女と出会ってからずっと彼女に恋をしていた。
「……まぁね。君の視線は昔の私に似ていたから」
「似ていたってことは……アイビーさんも」
「うん。隙がいたの」
そう語る彼女の顔はどこか幸せそうで、私は深い絶望に苛まれる。
だけど、好奇心というのは収まることを知らず、私は自分が傷つくことになると分かっているのに、彼女に問いかけてしまった。
「どんな人だったんですか?」
震える声で彼女に問いかけると、アイビーさんは少し考えた後、ニヒルに笑った。
「女の人だった。同じ高校に通う1つ上の先輩でね。私の歌をよく褒めてくれる強い人だった」
「強い人……?」
愛おしそうに好きな人のことを語るアイビーさんの横顔を見るのはとても辛かったが、それ以上にそのことが気になって私はオウム返しをした。
「あぁ、強い人だった。私は昔から歌を歌うことが得意だった。一方で先輩は歌を歌うことが好きだけど、お世辞にも上手とは言えなかった。だけど先輩は私に嫉妬することなく、褒めてくれたんだ。本当に強い人だったよ」
それを聞いた時、私はお姉ちゃんの顔は思い浮かんだ。
お姉ちゃんは歌が下手だった。だけど、それを理由に誰かに嫉妬することはなかった。
私は嫌な予感がして、アイビーさんの瞳を見つめる。そして、彼女に1つの質問を投げかける。
「……だから、私の前に現れたんですか?」
なぜ、自分の口からこんな言葉が出てきたのか分からなかった。
否定してほしい。ただの偶然であってほしい。
そう願いながら私は彼女の答えを待つ。
しかし、いつだって現実は残酷だった。
「あぁ、そうだよ。朱莉ちゃんが幡谷先輩の妹だから。私は君の前に現れたんだ」
「……ッ!?」
彼女は当然のような顔をして、私の質問を肯定した。
それがどれだけ私にとって残酷なことなのか、それがどれだけ私を傷つけるのか、彼女は知った上で肯定した。
そして、同時に今まで彼女から感じていた違和感に溜飲が下がる。
なぜ、彼女が私のことを名前で呼ばずに苗字で読み続けたのか。
なぜ、彼女が私を見つめる時、どこか私を見ていないような気がしたのか。
簡単だ。アイビーさんは私ではなくお姉ちゃんを見ていたのだから。
「私は幡谷先輩のことが好きだった。先輩のためだったら何でもしたかったし、実際に私は彼女のために大嫌いだった歌を何度も歌った」
忌々しい過去を語るように彼女は表情を歪ませながらそう語る。
「そして、私は先輩を殺した」
「……ぇ」
当たり前のようにそう告げる彼女に、私は小さく驚愕の声を漏らした。
彼女は私に視線すら向けずに淡々と語り続ける。
「ある夜、泣きはらした幡谷先輩が家にやってきてこう言ったんだ。「好きを否定した私に生きる価値はない。殺してほしい」って」
「……だから殺したんですか?」
「うん。だってそれが幡谷先輩の望みだったから」
事故死だと思っていたお姉ちゃんが実は殺されていて、目の前にいるアイビーさんが殺したと知ったのに私は怒ることができなかった。
まだこの話を理解できていないし、本当か分からないという理由もあった。
だけど、1番の理由は私がアイビーさんのことがまだ好きだったから。例え、大好きだったお姉ちゃんを殺したとしても、私はアイビーさんのことが好きで好きで仕方がなかった。
「……アイビーさんはお姉ちゃんに生きていて欲しかったんですか?」
「そうだね……。許されるのなら生きていて欲しかった。だけど、私は幡谷先輩の人生や想いに責任を取れないから。私は桟橋から幡谷先輩を海に突き飛ばした」
桟橋から海に落ちたら誰も助けることができない。その上、突き飛ばしたアイビーさんの指紋は水によって流れてしまう。万が一指紋が残っていたとしても、後輩という関係性ならなんらおかしくない。
つまり、間違いなく計画的な犯行だった。
「『献歌』ってあるでしょ? あの曲は幡谷先輩のために作った曲なんだ」
「お姉ちゃんの?」
「うん。そもそも献歌なんて言葉は存在しない。あるのは歌じゃなくって花の方の献花なんだ。朱莉ちゃんは献花ってどういう者か知っている?」
彼女の質問に、私は少し考える。そして、どこの本で献花について書かれていたことを思い出して、私はそれを口にした。
「確か亡くなった人の供養のために捧げる花のことですよね」
「うん。よく勉強しているね」
こんな状況だというのに、彼女に褒められたことがうれしいと感じてしまった私は彼女に自分の表情を見せまいと俯いて、表情を隠した。
「献花は生きる人と亡くなった人が最後のお別れをするための儀式。だけど、幡谷先輩と私の間にはよりふさわしいものがある」
「それが……歌」
アイビーさんはゆっくりと頷いて、私の言葉を肯定する。
「だから、私は幡谷先輩に別れを告げるために『献歌』を作った。そして、君に聞いてもらって私はそのまま先輩の後を追うつもりだった」
「……なのに、なんで」
「君があまりにも幡谷先輩に似てたから。君と生きて見たくなってしまった」
彼女は初めて声を震わせてそう弱音を漏らす。
分かっていたことだったが、アイビーさんは私のことをお姉ちゃんの代わりとしか見ていなかった。
その事実を彼女の口から突きつけられて、胸が張り裂けてしまいそうになるが、私は勇気を振り絞って問いかける。
「死んじゃうんですか?」
私の質問にアイビーさんは涙目を私に向けた。
「君はどうしてほしい? 私に死んでほしい? 自首して罪を償ってほしい? それともこのままの関係を継続したい? いいよ、私は君の言う通りに生きるよ。君のためだったらなんでもしてあげるよ」
そう言われて、私は口を塞いだ。
大好きな人になんでもしてあげると言われているのに、私の心は冷静そのものだった。
そして、頭を必死に回して自分の願いと向き合い続ける。
私が答えを出すまでアイビーさんは何も言わず、ただ車を走らせていた。
「着いたよ」
しばらくすると、彼女は短くそう言った。
窓の外に目を向けると、私の帰るべき家がそこにあった。
その家にはお姉ちゃんとの思い出がある。不器用な人だったけど、大好きだったお姉ちゃんとの大切な記憶がそこにある。
「あぁ、そうだよね」
そうだ。
何を迷っていたのだろうか。
彼女に対する願いなんて、最初から決まっていたじゃないか。
「……2つお願いがあるんです」
優しく私を受け入れようとするアイビーさんに、私はお姉ちゃんのような笑顔を向ける。
彼女は一瞬目を丸くして私を見つめるが、私は気にも留めずに願いを告げる。
「1つ目のお願いは、これからは歌を歌わずに生きてください。もう、お姉ちゃんのためなんか考えなくていいですから」
「……分かったよ。君がそう言うのなら」
アイビーさんは苦しそうに私のお願いを受け入れてくれる。
お姉ちゃんとアイビーさんの強い繋がりである歌を断つのだ。彼女にとっては想像もできないほど辛いことだろう。
「そして、もう1つの願いは?」
私はゆっくり後ろを振り返って後部座席に視線を向ける。
「2つ目の願いは私に——」
数年後、私は駅前のベンチに腰かけていた。
私の膝の上には彼女から貰い受けたアコースティックギターがあり、私は慣れた手つきでギターのチューニングを始める。
周囲に視線を向けると、サラリーマンたちが物珍しそうにこちらを見ていた。
そして、その中の1人の女性は今にも泣きそうな瞳で私を見ている。
私はそんな彼女に笑いかけて、ピックを持つ右手からゆっくり力を抜いた。
大好きな2人に全ての想いを伝えるために歌えるように願いながら、私は息を吸って目を開いた。
「初めまして。私の名前はヒガンバナって言います。それでは、早速ですが聞いてください『献歌』」
最後までお読みいただきありがとうございます!
始めまして、庵途です。
僕は毎週1万字程度の短編小説を投稿しているのですが、今後は夜ではなく朝か夕方辺りに投稿することになります。
今後も小説を読んでいただけたら嬉しいです!