80.怒りの矛先は誰のもの
「お嬢様、どうしてこのようなところへ……確かこのお時間は算術のお勉強だったはずでは……」
私は狐につままれたような気分のまま、練武場中央の右手側の壁付近におられたお嬢様のもとへと歩いていった。
「決まっておりますわ! 堪忍袋の緒が切れたからです!」
「へ……?」
よく見ると、お嬢様のお近くでぽけーっとしている最年少のクラリス嬢以外の陰全員が、何やらお嬢様からかなり距離の離れた場所でひそひそ話をしていた。
確かメアリー様とご相談のうえ、彼らには挨拶や言葉遣いの訓練をしているよう厳命していたはずですが、やはりお嬢様の影響でしょうかね。
何がどうなってこういう状況になっているのか皆目見当も付きませんが、いきなり彼らの元上司である旦那様のご息女が現れたのです。
全員が面食らって居心地が悪くなって当然というもの。
というより、今気にすべき点はそこではない。
「これは……まずいですね」
本来、陰の存在を知っているのは旦那様や大奥様だけだったはず。
もしかしたら奥様もご存じかもしれませんが、直接彼らの存在を肉眼で確認できる立場にあったのは現当主ただ一人だけだった。
陰の再編によって、極一部の人間には存在が知れることとなりましたが、いくらお嬢様とはいえ、今はまだ公にしていい段階ではない。
陰全員の使用人教育が終わって一人前になってはじめて、『新しい使用人』としてお嬢様にご紹介する段取りとなっていたのだ。
それなのにこの事態。
すっかり段取りが狂ってしまった。
彼らのことをどうご説明すべきか。
私はお嬢様のお近くまで歩み寄ると、すぐ側におられたメアリー様に視線を向けた。
「メアリー様、これはいったいどういうことにございますか?」
問いかけると、さすがの師匠も眉間に皺を寄せ溜息を吐かれる。
「それはこちらが伺いたいぐらいです。どうしてお嬢様がこのような場所にお越しになったのか――マーガレット。これはいったい何事ですか」
おそろしく鋭い声色に、お嬢様の背後で控えるように立っていたマーガレットが、「ひぃっ」と悲鳴を上げた。
メアリー様のお言葉からするに、どうやらお嬢様方はつい今し方、ここへとお越しになったようですね。
「こ、ここ、これはですね、お母様。いろいろ事情がございまして……」
「言い訳など聞く耳持ちませんっ。いいから白状なさい!」
相当激怒なされておいでのようだ。
ときどきメアリー様が実の娘であるマーガレットに説教をしているところを見かけていますが、今日は特に厳しい。
見ているこちらまで若かりし頃のことを思い出し、肝が冷える。
「ぅううぅ~……お嬢様がどうしてもヴィクター様に一言物申さなければ気が済まないとおっしゃって」
「私にですか?」
左右の人差し指の先をつんつんし、項垂れながらそう呟く彼女に反応すると、
「そのとおりですわ!」
と、お嬢様がじ~っと私を見上げるようになさった。
そのときのお顔は、どこか物悲しげでもあった――頬を膨らませておられたが。
「お嬢様、事情をお聞かせ願いますか?」
ここからは私の出番でしょう。
メアリー様にあとのことはお引き受けいたしますという意味を込めて目配せすると、彼女は溜息を吐かれたあと、隅っこで小さく固まっていた陰たちのもとへと歩いていかれた。
「ヴィクター!」
「はい、なんでございましょうか?」
「ヴィクターは私の執事なのです。それなのにどうして、他の方ばかりがあなたを独占なさるのですか?」
「はい? 独占でございますか?」
「そうですわっ。ただでさえ、あなたにお世話いただく時間が限られておりますのに、そのお時間まで他の方に取られてしまいましたら、私はいったいどうすればよろしいのですか?」
お嬢様はそうおっしゃり、これ以上ないといわんばかりにぶそ~となされた。
大分見た目も中身もご成長なさいましたが、やはり根っこの部分は変わっておられないようですね。
まぁ、こうして駄々をこねるお嬢様もお可愛いのですがね。
ですがそれはそれ、これはこれ。
さて、どうやってなだめればよろしいでしょうかね。
そう思ったとき、ふと思い浮かんだのは旦那様の面白がっておられるお顔だった。
――ふむ。これはやはり、旦那様に責任を取っていただくしかありませんね。
このような状況をお作りになったのはそもそも、あのお方なのですから。
私は心の中でほくそ笑んだが、決して表には出さない。
「そうですね。お嬢様のおっしゃることはごもっともにございます。私ももう少し、お嬢様のお世話をしたいのはやまやまなのでございますが、今現在、急ピッチでお嬢様主催のお茶会の準備に取り組まねばならないのでございます」
「え……? 私の……ですか?」
片膝ついて笑顔を浮かべる私にお嬢様がきょとんとされた。
「えぇ。昨今は物騒な世の中にございます。旦那様がそれを懸念され、急遽、私指揮のもと、お屋敷中の警備を強化する運びとなったのでございます。すべてはお嬢様の御為。そして、旦那様のご指示にございます。ですのでどうか、ご気分を害されませんよう、お願いいたします」
「そう……だったのですね。そのような事情が」
「えぇ」
「ですが、ただのお茶会ですのに、どうしてそこまで警備を整える必要があるのですか?」
「念のためにございますよ。何もなければそれでよし。何かあったとしても、警備を強化しておけば事なきを得ます。ただそれだけのことにございます」
「そう……ですか。あまり納得できませんが、事情はよくわかりました」
「おわかりいただけましたか」
「えぇ。よくわかりましたわ。やはりすべての原因がお父様にあるということが!」
「へ?」
私はマーガレットと顔を見合わせてしまった。
彼女は見るからに青ざめていき、「はわわわ」言い出している。
まぁ、事情を説明すればこうなることは察しておりましたがね。
というより、意図的に誘導しましたから。
旦那様。
あとはお任せいたしました。
「まったくもうっ。私先日申し上げましたわ。もう幼くはないのだから過保護にならないようにと!」
再びご立腹なさるお嬢様でしたが、
「いいですわっ。お父様がその気なら私にだって考えがあります――ヴィクター!」
「は、はいっ」
「あなたは私のものです。あなたの直接の主は私です。そうですわね?」
「はい。確かにおっしゃるとおりにございます」
「でしたら、もう二度と誰にも貸しませんわ! 私の許可なくヴィクターを使うことは断じて許しません。お父様にもそう、わからせてさしあげますわ!」
「さ、左様にございますか」
「えぇ!」
これは……予想以上に酷いことになりそうですね……。
自分でまいた種でしたが、まさかここまでとは。
立ち上がった私はマーガレットを見た。
彼女はより一層、挙動不審に身体を左右に揺らしながら「どうしましょう、どうしましょう」と悲鳴なのか独り言なのかよくわからない台詞を吐いている。
更にはお嬢様たちのすぐ側にいた陰最年少のクラリス嬢に至っては、そんな二人の様子を眺めながら、にかっと笑うのみ。
「そういうわけですから、ヴィクター! 明日一日、私に付き合ってくださいませ!」
「え?」
「明日、お茶会の準備のために、街にお買い物に行きたいのです」
「街……でございますか」
お茶会で用意するものは基本、お茶菓子とお茶、それらを盛り付けるための器、それから会場にもよるが、屋内であれば飾り付け、屋外であれば庭の手入れぐらいしかない。
大抵のものは主催者が指示すれば、あとは勝手に担当のものが商人を呼びつけ買い付けるだけなので、お嬢様自ら街に出向くこともないのですが。
「そういえば、そろそろ月一の視察の時期にございますな」
お茶会同様、十歳頃から将来的なことを見据え、どの家も社会勉強をするようになる。
このお家のように既得権益を持っておられる貴族であればなおのこと。
お嬢様がお家をお継ぎになることはないものの、公爵家の子女子息として、既得権益絡みの流通の仕組みや管理方法などは知っておかなければならない。
そのために、定期的に街の宝石商などに出向き、お勉強する必要があるのだ。
「そうですね。丁度いい機会でしょう。明日、旦那様に許可を頂き、街への視察を兼ねていろいろ見て回りましょうか」
「えぇ! そうこなくては! ではよろしくお願いしますね!」
「畏まりました、お嬢様」
腰を折って低頭する私に、なぜか「お~~!」と、クラリス嬢まで返事をし、私の足にまとわりついてくるのだった。
そしてその日の夜。
当然のように旦那様に呼び出された私が、お嬢様絡みで延々と愚痴をこぼされたのはいうまでもない。




