私は犬ではございません
とある日の昼下がり。
私はいつものように、お嬢様のお茶の時間に合わせて、三階サロンへと足を運んでいた。
「リセル。お嬢様の本日のお茶とお茶菓子はなんですか?」
「はい。西方産の香り高い紅茶と、それから木苺とオレンジのホイップクリームケーキにございます」
「なるほど。よき選択ですね」
「はい。料理長自らがお作りになったとかで、ケーキに使われているスポンジはとてもふんわり仕上がっているとか」
「そうですか。さすが公爵家お抱えの料理長なだけはありますね。茶葉も最高級のものを使用しているでしょうし、ショートケーキのジェノワーズ生地も、おそらく最高品質のものをお作りになったことでしょう。厨房からここまで、とてもいい香りが漂ってきています」
三階サロンは応接間のような最高級ソファーセットを始め、様々な家具調度品が壁際に置かれている。
お嬢様がいつもお座りになる白いテーブルセットもいくつか置かれ、だだっ広い室内はちょっとした高級カフェのような雰囲気を醸し出している。
裏庭に面した壁一面も窓となっており、そこから庭園や公爵家の敷地の外、道路一本挟んだ向こう側に居を構えるグレイアルス侯爵家の広大な敷地と大邸宅が一望できる。
窓から見える貴族街は本当に、いつ見ても美しかった。
おそらく、そのような景観美優れるお部屋だからこそ、お嬢様はここがお好きなのでしょう。
「ヴィクター?」
「はっ。なんでございましょうか」
少し物思いに耽りすぎたようです。
窓辺のテーブル席に座っておられたお嬢様が、どこか頬を膨らませておられるような気がした。
「どうしてあなたはそのようなところに立っておられるのですか? 今はお茶のお時間なのです。こちらにいらしてくださいまし」
「承知いたしました。ただいまそちらへまいります」
お茶の準備が整い、リセルが厨房へと消え、一人壁の人となっていたのがどうやらお気に召さなかったようだ。
やれやれ。
相変わらずお嬢様はわがままでらっしゃる。
ただ、そのようなところも、最近ではなぜか妙にお可愛らしく思えてしまう。
私も焼きが回ってしまったのかもしれませんね。
「どうかされましたか?」
「どうかしたかではありません。お茶のお時間は一緒に過ごしてくださると約束してくださったではありませんか」
「そうですね。ですからこうして、毎日顔をお見せしておりますよ」
「ヴィクター? 私はそういうことを言いたいのではありませんの。一緒にお茶を飲みたいのです。そして、毎日一生懸命お勉強をがんばっている私をいっぱい褒めて欲しいのです。いい子いい子して欲しいのです」
お嬢様は可愛らしいお顔を不満げに、それでいてどこか寂しそうにされた。
あぁ。
そのようなお顔をなさらないでいただきたい。
胸が痛くなってしまうではありませんか。
ですが――
やはり言わねばなりません。
「お嬢様。使用人であるこの私が主であるお嬢様と椅子をともにすることはできないのでございます。もっと言えば、お嬢様は本当にがんばっておられると、いくらでもお褒めさせていただきますが、主の頭を撫でることは、やはりできないのでございます」
「でしたら、私はヴィクターとお菓子を一緒に食べることも許されないのですか? 今日一日頑張ったことをただいっぱい聞いていただいて、褒めて欲しいだけですのに」
「お嬢様。誤解なさらないでください。私はもちろんのこと。お時間が許す限り、いくらでもお嬢様のお話を伺わせていただきますよ? 正しいこと、喜ばしいことをなさったのでございましたら、いくらでもお褒めしてさしあげます。私もお嬢様のお話を伺いたいですし、いっぱい褒めとうございますから」
「でしたら……!」
「ですが、やはり、使用人の領分を超えることはできません。リセルやマーガレットであれば、ある程度は許されますが」
にっこりと微笑み、軽く腰を折る私に、お嬢様はこれ以上ないと言わんばかりに頬を膨らませられた。
しかし――
何やら、次の瞬間にははっとしたようなお顔をされていた。
なんだか嫌な予感がします。
「ヴィクター? つかぬ事をお伺いいたしますが、私があなたに何かする分には問題ありませんか?」
「はい? 私に……なんと?」
「ですから、あなたが私の頭を撫でるのはダメとおっしゃいましたが、主である私があなたに何かする分には問題ないのですわね?」
「え……えっと、それはですね……」
一瞬、なんて答えたらいいかよくわからず困ってしまった私に、お嬢様がにっこり微笑まれた。
「ヴィクター。私の前に片膝ついてくださいまし」
「はい?」
「いいから目線を合わせて欲しいのですわ」
「は、はぁ……」
なんだか非常にニコニコされておられる。
このお顔は……。
本来の歴史でも、似たようなお顔を拝見したことがあった。
学園時代のお嬢様がご学友や王太子殿下を傅かせていたときのまさにあれ。
渋々、ゆったりと右膝をつく。
立ち上がったお嬢様と目線が合ったその瞬間、
「いい子いい子。ヴィクターはいつも、私のためによくがんばってくれて、本当に感謝しているのですわ」
そんなことをおっしゃりながら、ひたすら私の頭を撫で始めるのでした……。
私はお嬢様の突然の言動になんとも言えない気分となりながらも、困惑してしまった。
「お、お嬢様。これはその、なんと言いますか。やはりこれも臣下の範疇を――」
「いいのです! 私がしたいからやっているのですわ! 大人しくされるがままにされていればいいのです!」
「わっ……お、お嬢様!? なりません! 私の頭を撫でられても何もいいことなどございませんぞ!?」
「いいかどうかは私が決めるのですわ――て、あら? なんだか楽しくなってきましたわ。くすくす。こうしていると、なんだかジョンを触っているときのような気分になりますわ」
「お嬢様! 私は犬ではございませんぞ!? もし、モフりたいのでございましたら、どうかジョンをモフってさしあげてくださいませ!」
お屋敷の片隅で飼われているお嬢様の愛犬ジョン。
白い大型犬は長毛種で毛並みがよく、とても温厚で愛らしい犬だった。
が――
彼と私を同じにしないでいただきたい!
私は犬ではないのですから!
お嬢様のお手を払いのけるのは大変な無礼に当たる。
それゆえ抵抗もできず、ひたすらされるがままになっていると。
紅茶とケーキが載せられたワゴンを厨房から運んできたリセルが途中で固まった。
ぽか~んとしている。
「リセル! そのように、哀れんだ目で私を見るのはおやめなさい! それより早く! お嬢様をなんとかしてください!」
ひたすら情けない気分となりながらも叫んだ私の声と、楽しげにきゃっきゃしておられるお嬢様の笑い声だけが、豪華なサロンを彩る音楽となって、しばらくの間、奏でられていた。




