18.戦力外通告1
大庭園に面した自室の窓から見上げる三日月が、異様なまでに綺麗な夜だった。
お嬢様付きの執事として復帰してから丁度一週間が経過している。
私はその日の業務もなんとかすべてをこなすことができ、一息ついているところだった。
お嬢様付き使用人の仕事は朝の身支度のお手伝いから始まって、夜、寝所でお眠りになるまで続く。
専属侍女たちは最低でも二名から四名いるのが普通で、早番遅番、もしくは三交代から四交代で仕事をこなす。
専属ではないものの、お嬢様のお世話をする侍女も、リセルやマーガレット以外に何名かいる。
本日の遅番はマーガレットだった。
私とマーガレットはお嬢様が四階にある居室でお眠りになるそのときまで、お嬢様のお側、もしくはすぐ近くにある控えの間で待機していた。
そうして、最後の見守り業務が終わってから、夜通しお側で待機する夜勤業務の当番が来るまで待機していなければならない彼女を一人残し、部屋まで戻ってきたという次第である。
時刻は既に十一時を回っている。
いつもなら十時にはご就寝なさるのだが、今日は随分と時間がかかったものだ。
まぁ、どこか抜けているマーガレットにすべての原因があるのだが。
お嬢様はご就寝あそばれるとき、大抵、絵本を読み聞かせてさしあげるのだが、今日はマーガレットが面白おかしく読んでしまったせいで、すっかり目が覚めてしまわれた。
お陰で私まで巻き込まれてしまったというわけだ。
「やれやれ。まぁ、楽しい一時をお過ごしいただけたのでしたら何よりですが」
私は未来でついた癖の一つである顎髭さすりをしようとして、それがないことに気が付き、月を見上げながら苦笑した。
そんなところへ、
「ヴィクター殿、おられますかな?」
突然、控えめにノックがされ、聞き覚えのある渋い声が聞こえてきた。
「これはエヴァルト様ではございませんか。このような時間にどうかされましたか?」
扉を開けると、そこには白髪をオールバックにしたタキシード姿の老人が立っていた。
私の隣室に居室を持つ、老執事ランクルード・エヴァルト様だ。
御年六十八を数える、このお屋敷では最長老に当たるお人だ。
先々代から公爵家の使用人として仕え、先代専属の筆頭執事でいらっしゃったが、先代が数年前に急死なされたことで、その後は隠居なされていた方でもある。
しかし、アーデンヒルデお嬢様がお生まれとなり、私が旦那様付きからお嬢様付きに配置換えしたことで、急遽、旦那様に請われて復帰されたのだとか。
そんなわけで、今でも旦那様付き執事として現役である。
なお、生来温厚で、一度一線を退いた身の上だからと、筆頭執事の座につくことを固辞され、結局、私が今でも公爵家筆頭のままだった。
「業務が終わったばかりでお疲れのところ申し訳ありませんね。何やら旦那様がお話があるとかで、お呼びにございます」
「旦那様が?」
こんな時間に呼び出されたことなど今まで一度もなかった。
何かあったのだろうか?
私はエヴァルト様に連れられ、一言二言言葉を交わしながら一つの部屋の前で足を止めた。
四階にある、旦那様の私室である書斎だ。
お屋敷三階がどちらかといえば、公爵家一族の教育などに使われるお部屋で大多数が占められているのに対して、四階は居室など、ご家族の私室が主となっている。
旦那様夫婦の寝室を始め、お嬢様や三歳の二女リリアンローゼ様、一歳のご嫡男グラハム=リーン様、先代の奥様であらせられる大奥様オヒーリア様のお部屋など。
私も旦那様付きだった頃はよく、この書斎に出入りしていたものだが、本当に懐かしい。
このお部屋に呼ばれるときは、決まって私は執事ではなく、旦那様の友として熱く語り合ったものだ。
「では、私はこれにて」
丁寧に腰を折られる執事の鑑のようなエヴァルト様に会釈を返し、私は扉をノックした。
「――入れ」
重厚な木製扉の向こうから、微かな返事が戻ってくる。
「失礼いたします」
左の空き部屋を挟んだ向こう側には、大奥様のお部屋がある。
ご迷惑おかけしないように声を潜めて中へと入った私は、
「よう……」
正面左手に置かれた巨大な執務机。
その前の椅子に座られた旦那様のお姿を見て、呆れてしまった。
「酔っておられるのですか……」
そう。
足を組み、背もたれに寄りかかるようにしながら茶色の液体が入ったグラスを手にされた旦那様は、すっかりできあがっていたのである。
「なんだ? 酒を飲むなとでも言いたいのか?」
「いいえ、滅相もない。ただ、純粋に驚いただけにございます」
丁重に腰を折ると、旦那様はつまらなさそうに鼻を鳴らされる。
「ふん。まぁいい。というより、なんだその態度は? この部屋で二人きりのときは、昔のようにせよ」
「と、おっしゃいましても」
正直、本来の歴史の私だったらそれも可能だったかもしれない。
五、六年前までは貧民街で生活していたような、本当に粗雑な冒険者上がりの新米執事だったから。
しかし、今は違う。
私は一度、五十四歳まで生き続け、そして死んでいる。
三十五年近い歳月を公爵家筆頭執事として、また王妃付き執事としてひたすら宮廷社会に揉まれながら生きてきたのだ。
今更昔のように、粗野な口調など簡単にはできない。
「ご勘弁ください」
丁重にお断りすると、旦那様は舌打ちなされてグラスを机の上に置かれた。
「なんだかお前も随分変わった気がするな。怪我の影響か?」
「かもしれませんね。世界観が一八〇度変わったような気がいたします」
「……そうか」
扉の付近に立ったまま、静かに答える私に、旦那様も机がある壁を向いたまま、静かに答えられた。
「ところで、お話があるとのことでしたが、何かございましたか?」
旦那様は私の問いに答える代わりに手招きなさる。
「とりあえずそんなところに突っ立ってないでこっちに来て座れ」
そうおっしゃって私との間にあった椅子を勧めてこられる。
「いえ、座れとおっしゃっても、私は使用人にございます」
「つべこべ言うな。強情な奴め。これは命令だ。さっさと座れ、でなければまともに話もできんだろう」
「……どうやら、相当お酒を飲まれているようですね」
「飲んで何が悪い。これが飲まずにいられるかってんだ」
壁にかけられた魔導製のランタンが灯す仄かな明かりの中でも、旦那様のお顔が赤らんでいるのが見て取れた。
この国に住む人族の大半は皆、白色人種であり、直射日光も強くはないためそこまで真っ黒に日焼けすることはない。
だから余計にわかりやすかった。
「仕方がありませんね。では失礼いたします」
直接の主ではないが、雇い主である旦那様に命令といわれては断れない。
これは旦那様だけに限った話でなくお嬢様にもいえること。
だから万が一このことがお嬢様に知られでもしたら、
「お~っほっほっほっ。これは命令よ。今日は私のお茶に付き合いなさい? ヴィクター」
などと、学園時代を彷彿とさせる言動をお見せになるに違いない。
私は思わず想像してしまい、ぶるっと身を震わせた。
「それでお話というのは? そのご様子ですと、宮中で何かおありだったのですか?」
「宮中だと? 違うわ。その程度のことでこれほど心がざわつくはずがない。毎日毎日、敵対派閥とやり合っておるのだ。いちいち奴らの言い分に気分を害しておったら身が持たんわ」
「でしたら――」
「お前だよ、お前。ヴィクター、お前のことだ」
「え……?」
じっと見つめてこられる旦那様の真っ赤な双眸が、どこか揺れ動いているような気がした。
もし私にどこか至らぬ点があって、それが元で苦悩させてしまっているのだとしたら、とんだ失態だった。
ただでさえ、自由の利かない身体のせいで以前の半分ほどの仕事しかできなくなっているというのに、これ以上ご迷惑おかけしては、末代までの恥だ。
「申し訳ございませんでした、旦那様。私の気付かぬところで何か、ご不快な思いをさせてしまわれたのございましょうか?」
「違う違う。そうではない。そんなことじゃないんだ。俺はただ――」
しかし、それ以上は言葉にならなかったようで、口を閉ざされてしまわれた。
何度も何度も口を開きかけては喉元まで出かかった言葉を飲み込み、再度口を開いては飲み込むといった感じの長い時間が過ぎていった。
旦那様はとてもお辛そうに唇を噛みしめがら、私から視線を外されてしまわれた。
私はただ、待った。
旦那様自らがお言葉をくださるそのときまで。
そうして、我が永劫の友であり、また雇い主でもあらせられる旦那様は長い溜息を吐かれたあとで私に向き直られた。
「ヴィクターよ」
「はい」
「お前に暇を申し渡す」




