17.暴走お嬢様2
「お嬢様。ひとまずこの件に関してはおいておきます。たとえ予定にないことであったとしても、お嬢様が積極的に何かに興味を持たれ、学ばれようとなさる姿勢は大変好ましいことですからね」
「そうでしょう!?」
「えぇ。ですが、本日はなりません」
「え~……」
「え~、ではございません。料理のお勉強とやらはまた次の機会に。本日はご予定がびっしり詰まっておいでなのですから」
無表情に説くと、お嬢様は頬を膨らませながらも残念そうに頷かれた。
「わかりましたわ。ですが、一つ約束してくださいませ」
「なんでしょうか?」
「もし私がいろいろなことをお勉強し、それらすべてを吸収して一人前の淑女となった暁には、私が作ったお料理やお菓子を食べること。それから予定よりも早くすべてのカリキュラムを終えた日は、残り時間を自由時間にすること。よろしいですわね?」
「お約束はいたしかねますが、もしそれでお嬢様の学ぶ意欲の手助けになるのでしたら、不肖、このヴィクター、ご助力させていただきます」
静かに腰を折る私に、
「わかりましたわ」
お嬢様はどこか得意げに答えられた。
「では本日午後の予定の続きですが――」
ヴァイオリンや歌のレッスン、お茶の時間と次々に説明していく私に、お嬢様はしっかりと耳を傾けてくださった。
その淑女然たるお姿。
かつてのお嬢様では決してあり得ない反応に、私は自然と嬉しくなってしまい、つい気が緩んでしまったようだ。
「つっ……」
「ヴィクター?」
突然、胸に痺れるような痛みが走った。
いつものアレだった。
今はもう普通に動けるようになっていたが、時折身体のあちこちが痛むことがある。
せっかく若かった頃の身体を取り戻し、これでようやく全力で悪漢からお嬢様をお守りできると思っていたというのに、毒に蝕まれ壊れてしまった身体は、決してそれを許してはくれないようだ。
「大丈夫なのですか?」
椅子から立ち上がったお嬢様が心配そうに下から覗き込んでこられる。
私はすぐに笑顔を浮かべると、胸から手を離して一歩下がり、会釈した。
「問題ございません。お嬢様のお勉強のサポートという、これから重要な任務が待っておりますし、久しぶりの任にございます。ただただ、緊張に胃がキリキリ痛むだけにございます」
「そう。でしたら、やはりここはお勉強は止めて、お料理の方など!」
「いえっ。それだけは断じてなりません!」
「ぶ~~っ」
ふてくされるお嬢様に私は平然な振りしてやり過ごした。
お嬢様には体調の悪さをあまり知られたくはない。
自分のせいで私がこうなったと自責の念に囚われて欲しくはないからだ。
しかし、そんな思いとは裏腹に、どんどん痛みが強くなっていく。
今すぐ痛み止めを飲むか、魔法で治癒してもらわなければ立っていられなくなるだろう。
「それではお嬢様、私はメアリー様をお呼びしてまいりますので、お先に礼室へと向かわれてください――リセル、あとは頼みましたよ」
「はい。お任せください」
侍女頭でもあり、このお屋敷に詰める侍女や大勢の使用人たち、そして公爵家のお子様たちすべての教育係を一手に引き受けてこられたのが師匠であるメアリー様だ。
私は冷や汗をかきながらも扉横で会釈するリセルの横を通り抜け、回廊へと出た。
慌てて薬を飲み込む。
そんなところへ、
「やはりまだ痛むか」
回廊右手側の向こう側から旦那様が歩いてこられた。
軍服をお召しになっておられるということは、これから登城されるのだろう。
旦那様が歩いてこられたあちら側には、二階にある公務を行うための執務室とは別の、もう一つの執務室がある。
そこで何かなさっていたのだろう。
「旦那様……いえ。大したことはございません」
「俺は何度も言ったぞ? 無理はするなと」
「心得てございます」
「ふむ……どうやらわかっていないらしいな。これを持ってみろ」
そうおっしゃって、旦那様は手に持っていらした分厚い本を、私の方へと投げて寄越された。
……!
慌ててそれを掴もうと手を伸ばしたとき、電撃が走ったかのような激痛が全身を襲った。
かろうじて手にした本が、巨大な大剣でも持たされているかのような感覚を右手に伝えてくる。
重すぎてとてもではないが持っていられず、しかし、両手で支えようとして左手がないことに気が付き、結局私は本を大理石の床に落としてしまった。
「……やはりか」
「も、申し訳ございません。大切な資料を床に……」
「気にするな。そいつはどのみち、お前にやろうと思っていたものだからな」
「え? 私にでございますか?」
「あぁ。フランツが探してきたものだ。お前の体力や筋力回復にいいかもしれないと思ってな」
ニコル・フランツ殿は旦那様と同い年の騎士だ。
公爵家に仕え、その書記官としての才覚の高さから、旦那様が最も信頼されている近習でもある。
そのような方までお使いになって、私のことを気遣ってくださるとは。
「過分な計らい、痛み入ります」
私は一度丁重に腰を折って礼を尽くしたあと、床に落ちた本を拾い上げた。
しかし、やはり重過ぎる。
タキシードの袖が揺れる左肘だけでなく、右手が異常なうずきを訴えてきた。
何か得体のしれないものが中に潜んでいるかのような、むずむずとした感覚。
そのせいで、まったく力が入らない。
いや、それ以前に、これは本当に本だろうか?
中身をくりぬいて、何か別の、たとえば石の塊でも入れているのではなかろうか?
頬が引きつるのを感じながら、右手をぷるぷるさせていると、旦那様が呆れたようなお顔をされ、近寄ってこられた。
「貸せ。お前にはまだ無理だったようだな。しっかりと養生せよ」
旦那様は私から本を受け取られたあと、
「すまなかった」
私の横を通り過ぎる際、胃の腑から吐き出されたかのような深くて重みのある声色で、そう呟かれた。
私はそのときに浮かべられていた旦那様のお顔を、一生忘れることはできないだろう。
――懺悔、悔恨、慟哭、苦悩。
それらすべてが当てはまりそうな、苦渋に満ちたお顔だった。




