16.暴走お嬢様1
「では、早速ですがお嬢様、本日のご予定からご説明いたします」
「えぇ、お願いいたしますね」
室内に設置された椅子へと再び戻られたお嬢様に、私は今日の予定を説明していく。
この部屋は丁度一階の大食堂や二階政庁区の休憩用サロンの真上に作られた、裏庭を望めるかなり広いサロンだった。
回廊北側のこの部屋は両サイドに専属侍女たちの控室や簡易厨房などもあり、お嬢様やシュレイザー公爵家一族の方々がくつろがれる場所となっている。
お嬢様は昔からこのお部屋を大層お気に召しているご様子で、朝食のあと、ここに入られていることが多い。
専属侍女たちは朝の支度からずっとつきっきりでお嬢様に付き従うが、執事である私たちは旦那様方と軽く打ち合わせを終えてから、各担当の尊き方々のもとへと向かうため、大抵このタイミングでの顔合わせとなる。
「本日午前のご予定ですが、まずは礼節のお勉強のお時間となります。お嬢様は将来、多くの高貴なる方々と接する機会が増えることが予想されるため、これは欠くことができない大切なお時間となります」
礼節という言葉をお聞きになったとき、お嬢様は僅かに表情を震わせられたが、敢えて気付かない振りをした。
「続きまして、お茶の小休止を挟みましたあと、算術のお勉強と地理、歴史のお勉強のお時間となります。それから――」
「すと~~ぷっ」
「はい?」
「ヴィクター? 私、礼節や算術なども大切なお勉強だと思いますの。ですがそれよりももっと、今一番にしたいことがありますの」
「一番……でございますか?」
「そうなのです! 一番にしたいことがありますの!」
そうおっしゃったときのお嬢様のお顔ときたら、それはもう、誰にも止められない暴走魔導列車がごとき得意げでにこやかな笑顔一色となっておられた。
嫌な予感しかしない。
既に遠い昔の記憶の中にしか存在しないとはいえ、忘れられるわけがない我が主のあのじゃじゃ馬振り。
「お嬢様、なりませんぞ? お屋敷を抜け出して、お庭で遊ばれるのだけはご勘弁ください」
若干冷や汗をかきながらも、左腕がないことを忘れて思わず額の汗を拭おうとしてしまった私に、お嬢様がふくれっ面となられる。
「ヴィクター! 私のことをなんだと思っておりますの? そのようなことはもうしないと、約束したではありませんか」
「え……? でしたら、何を……?」
いまいちお嬢様が何を考えておられるのかさっぱりわからない。
ぽか~んとしていると、
「私、お料理のお勉強をしたいんですの」
「へ……?」
まるっきり予想していなかった答えが返ってきて、私は思わず素に戻ってしまった。
あり得ないことだった。
私の記憶の中にあるお嬢様といえば、
『礼儀作法なんて絶対に覚えませんわ。算術のお勉強もイヤ。地理とか歴史もイヤ。そのようなもの、私には必要ありませんもの』
そうおっしゃって、あれもイヤこれもイヤと、随分と振り回されたことを今でも思い出す。
お嬢様の駄々っ子振りは成長と共に緩和されていったが、それでも散々苦労させられた。
それなのに、料理をしたいですと!?
ありえない……。
食べることはお好きでしたが、食事は料理人が作るのが当たり前と考えている貴族社会の申し子のような方でいらっしゃったはずなのに……。
「これは……雪でも降ってくるのでございましょうか……?」
「はい?」
茫然自失になりかけて思わずこぼしてしまった本音に、ニコニコ笑顔だったお嬢様がきょとんとされる。
私はゆっくりと背後を振り返り、扉付近に控えていたリセルを見つめた。
本日の早番である彼女もまた、呆気にとられている。
普段ほとんど表情を変えないクールビューティーな彼女ですら、困惑していた。
「え、えっと、お嬢様?」
「何かしら?」
「なぜに突然、料理などと……」
「あら? そんなことですの? 決まっているではありませんか。私の騎士様であらせられるヴィクター様に、手作りお菓子を振る舞ってさしあげたいの」
そうおっしゃりながら再びにっこり笑顔となられるお嬢様。
私は穴があったら入りたい気分となってしまった。
どこかうっとりとすらしてらっしゃるお嬢様。
もう私のことを様付けして呼ばないとお約束なさったはずなのに、まだ治られていなかったとは。
そのうえ、使用人であるこの私に茶菓子ですと?
あぁ、なんという……。
その過分な計らい、もちろん臣下として嬉しくないはずがありません。
ですが、そのようなことをなさってはなりません!
尊きお方と使用人とはきっちり区別されなければならないのです!
えぇえぇ、そうですとも。
使用人に手を差し伸べられ、温かいお言葉をかけてくださるだけならまだよいのです。
ですが、主御自らが動かれ過分な計らいをされては、他の貴族の方々に示しがつきません。
平民や身分の低い下々と馴れ合う品位の欠片もない者と、軽視されてしまわれます。
それだけは断じてあってはならないことなのです!
「あら……? どうかいたしまして?」
いかん……。
本来の歴史でのお嬢様と現在のお姿とがあまりにも違い過ぎたせいか、思わず興奮のあまり暴走しかかってしまったようだ。
一人ぜぇはぁしていたら、お嬢様が小首を傾げられた。しかし――
再びどこか夢見心地な表情になられると、小さな両手を胸の前で組み、天を見上げられた。
「ねぇ、ヴィクター。私、あのときのことが忘れられないのです」
「へ? あのとき……でございますか?」
「えぇ。そうですの。お庭のテラスでヴィクターが私の手からクッキーを食べてくださったあのときのことです。私、あのときのことを思い出すたびに、胸がキュンキュンしてしまいますの」
「な、なんですと? きゅ……きゅんきゅんにございますか!?」
お嬢様が何をおっしゃっているのかよくわからず、口をあんぐり開けたままでいると、
「ぷっ……」
後ろから噴き出すような笑い声が聞こえてきた。
ゆっくりと振り返ると、笑っているところを一度も見たことがなかったリセルが、必死に笑いを堪えるように腹を抱えながら忍び笑っていた。
「リ~セ~ル……」
「も、申し訳ございませんっ……で、ですが……その……ぷっ……」
どうやらツボに入ってしまったらしい。
私は派手に溜息を吐いて気持ちを落ち着けると、軽く咳払いをするのだった。




