15.久しぶりの自室、そして復帰
――一月後の八月末日の朝。
季節は晩夏となり、もうまもなく実りの秋がやってくる。
聖都ヴァルトリアは北緯五〇度線に近いかなりの北国に位置するため、夏でも三十度には届かない。
だから南方地方と比べると、この時期でもかなり涼しい方だ。
むしろ、肌寒くすら感じる。
更に季節が進み、秋も深まり、冬が到来すれば、この街は雪で真っ白に覆われることだろう。
そういった土地に存在するのが、このお屋敷が建てられている王家直轄領の聖都だった。
そして、そんな季節の変わり目に差しかかった頃、ようやく私は杖や車椅子とおさらばすることができた。
個人的には本当に長い病床生活だったが、やはり、旦那様がご指摘なさったとおり、とても早い回復だったようで、医師たちは大層驚かれていた。
ただ、それでも完全に治ったわけではなく、引き続き、投薬治療やリハビリは必要とのこと。
ゆえに、医務室でのベッド生活が終わったに過ぎない。
そしておそらく、たとえ傷が完治したとしても、以前と同じような生活には戻れない。
そんな予感がした。
◇
久しぶりに自室へと戻ってきた私は、長い間留守にしていた室内を見渡していた。
二ヶ月以上もの間誰も使っていなかった部屋は、もう少し埃が積もっているだろうと思っていたが、案に反して小綺麗だった。
もしかしたら使用人の誰かが気を利かせて掃除してくれたのかもしれない。
本来であれば、他人の自室に無断で入り込むなどあり得ないことではあるが、幸いなのかどうか。
他の使用人たち同様、私も私物をほとんど持ち込んでいない。
支給された衣装などが置かれているだけだから、高価な代物などが盗まれることもない。
「ですがあれですね。よくよく考えてみましたら、この部屋で寝泊まりするのは三十年振りでしたか」
なんだかよくわからないうちに時間が巻き戻ってしまい、更にその足でお嬢様の拉致事件へと飛び込みそのまま医務室送りとなってしまったから、一日たりともここで寝泊まりしたことはなかった。
そのせいか、自分の部屋といわれても、ようやく戻って来られたという晴れやかな気持ちにはなれなかった。
――それに、未来の記憶も鮮明に残っている。ここで暮らした記憶は遠い過去のもの。
これまで過ごした二ヶ月ほどの間、なんとなく当時の記憶をほじくり返そうとしてはみたものの、細部まで覚えているわけでもない。
ただただ、若かりし頃の旦那様や奥様、お嬢様方のお姿が懐かしくもあり、どこか物悲しく感じられるだけだった。
私の記憶の中にある旦那様方やお嬢様の最後はどれも悲惨なものばかりでしたから。
――ですが、だからこそ、私は思うのです。
今後お嬢様をお守りするために必要となる知識すべて、頭をかち割ってでも思い出さねばならないと。
「ただ、それでも今は、この懐かしいあの頃の日々を楽しませていただきますよ」
私はほくそ笑み、新たな生活を送るぐらいの気持ちで、やり直すことにした――のだが、
「――しかしまぁなんですね……やはり、傷跡も完全になくなっているわけではないようです」
このあと、通常業務へと戻らなければならないため、早速着替えようと姿見の前に立ち上半身裸となったのだが、腕も胸板も腹もそこら中が傷だらけとなっていた。
幸い、紫色に変色した斑点模様などはほぼほぼなくなっていたものの、再生医療の影響か、完全に傷が消えることはなく、痣のようになっていた。
元々十代の頃に冒険者をやっていた関係で、そのときに受けた刀傷などがそこら中にできていたから小綺麗な身体というわけではない。
それでも更に傷が増えるというのも、あまりいい気はしなかった。
ある意味、お嬢様をお守りすることができたことを意味する名誉の勲章みたいなものだから、誇らしくはある。
この傷を見るたびに、数ヶ月前のことを教訓として思い出せるし、結果的にはこれでよかったのかもしれない。
私はそう自分に言い聞かせながら、素早く白シャツとタイ、黒のタキシードを身につけた。
例によって腰には帯剣し、いつでもお嬢様をお守りできるよう準備を整えておく。
左肘から下がなくなってしまったことで、袖がぶらついてしまうのが悩みの種だ。
貴族社会に生きる者として、当然今後も他の貴族と顔を合わせることが多いだろう。
そのとき、このような醜く品のない姿を見せるのは、正直なところ、貴族的な価値観からするとマイナスでしかない。
不完全な存在=下等で下劣な取るに足らない相手と見なされるからだ。
その結果、公爵家、引いてはお嬢様まで品格を疑われかねない。
早急になんとかしなければならない。
義手なども世に出回っていることだし、早々に入手した方がいいだろう。
私はひととおり準備を終えてから部屋を出た。
◇
私に与えられている自室は使用人棟の最上階である四階の角部屋となっている。
見取図的にいえば、母屋の東に連なる建物の、前庭を一望できる部屋といったところか。
この場所から見える景色は本当に素晴らしいの一語に尽きる。
前庭だけでなく、東側に造成されたもう一つの園遊会用大庭園や、四つの噴水広場、大門やロータリー、西側の車庫や厩舎といったすべての景色が見渡せるようになっている。
男女合わせて常時二百名ほどが詰める、西兵舎の男子棟や東兵舎の女子棟の一部も眺望に溶け込んでいる。
そのため、一見すると、小国の王が住まう大宮殿から見える景色にも思えるが、侯爵家以上の大貴族はみんなこんな感じだ。
聖都内に広大な土地が与えられているうえ、私兵を持つことも許されているような特権階級。
使用人の数も大体五十人ぐらいはいるだろう。
そしてそんな大豪邸が、私が住み込みで働かせていただいている公爵家だった。
――本当に今更ですが、そのような場所に住まわせていただいていることを光栄に思わなければいけないですね。
「お嬢様、ヴィクターにございます」
長い回廊を歩きながら三階へと降り、そのまま更に豪奢な回廊をひたすら西へと進んで一つの扉の前で立ち止まり、来訪を告げた。
すぐに重厚な扉が開かれ、中から専属侍女であるリセルが顔を覗かせ深々と頭を下げた。
若いのによく教育が行き届いている。
私は軽く頷き、白い手袋はめた右手を挙げるに留め、「失礼いたします」と、室内に入って腰を折った。
「ヴィクター!」
すぐに嬉しそうで可憐な声が聞こえてくる。
「もうお身体の方は完治されたのですか?」
顔を上げた私へ小走りに駆け寄ってこられる小さなお方。
我が主であり、公爵家の姫君であらせられるアーデンヒルデお嬢様。
「えぇ。お陰様でもう大分ようなりました」
微笑みながら答える私に、何度も何度も愛らしい笑みを浮かべられたまま頷かれるお嬢様。
ですが、どうやら私の揺れる左袖が視界に入ってしまわれたようです。
ほんの一瞬だけですが、悲しげに表情が曇ってしまわれる。
やはり気に病んでおられるのかもしれませんね。
どうしたもんかと思いましたが、お嬢様は何事もなかったかのように、すぐに笑顔を取り戻してくださった。
「そうですかっ。本当に喜ばしいことですわ。私、ずっとず~っとこのときが来るのをお待ちしておりましたの」
「はは。そうでしたか。随分とお待たせしてしまい、大変申し訳ございません。ですが本日より、通常業務に戻らせていただきますので、再びよろしくお願いいたします」
「えぇ、えぇ。もちろんですわ。私、う~んと、ヴィクターにお世話していただきますの」
そう仰せになったお嬢様は、それはもう、本当に嬉しそうだった。
もしかしたら、内心では私が腕を失ったことを悲しまれ、それを必死になって隠しておられるだけなのかもしれませんが。
ですがそれでも、そんな悲しみを振り払い、私のために笑顔を浮かべてくださっている。
使用人冥利に尽きるとはこのことでしょうか。
本当に復帰できてよかった。
そう思える瞬間だった。
本来、シャツの袖にはボタンが付いておりますが、左手がないので付け外しすることができません。
そこで、いちいちボタンを外さなくてもいいように加工されています。
同様に、前ボタンもパチッと留めるような、片手でできる簡単なものへと変更が加えられています。
手袋も、専用のスタンドに置いて、付け外ししやすくなっているようです。
一使用人に対してそこまで配慮してもらえる。
ヴィクターさんは本当にいい上司を持ったようですね。




