エッフェンベルガーとムーラン
一方その頃、王宮では。
執務室で書類仕事に忙殺されていた王国宰相エッフェンベルガー公爵のもとにも、一人の男が姿を現していた。
リュックベスター・クワィエット・ムーラン侯爵。
黒髪黒瞳で、長い髪をすべて後ろに流している。
御年五十八を数える白髪碧眼のエッフェンベルガー公爵よりも九歳若い男だ。
内務大臣の要職にあり、宰相派閥の筆頭でもある。
「閣下。例の件ですが、やはり陛下がお忍びでシュレイザー公の屋敷へ赴いていたのは事実のようにございますな」
書類にペンを走らせる手を止め、背もたれに寄りかかるようにしていた宰相が、そのムーラン侯爵の報告を聞き、忌々しげに舌打ちする。
「本当に陛下には困ったものだ。あれだけ口を酸っぱくして言い含めておったというのに、いまだに放浪癖が直らんとはな。この分だと、知らぬ間に国外へとご遊興あそばされていた、などということもあり得るのではないか?」
「どうでしょうかね?」
「いっそのこと、陛下には廃位を迫り、賢者として知られる王妃様を女王と戴いた方がこの国のためになるのではないか?」
「閣下……さすがにそれは……」
ムーランは困ったような顔をした。
政治に女は口出ししてはならんというのがこの国が昔から掲げてきた不文律だ。
それを破ったらどうなるか。
バカでもわかる。
貴族の大半が反意を露わにし、クーデターに発展しかねない。
さすがにそのことに考えがいかない宰相ではないだろう。
「わかっておる。ただの世迷い言だ。気にするな――それより、例の魔物騒動の子細はどうなっておる? あの小童の戯言など、どうせあてにはならん。適当なことを申して誤魔化しているに決まっておる」
宰相は「たくっ。最近はますます先代に似てきおって。面倒すぎて困る」と、愚痴をこぼす。
ムーランは額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭うようにしてから口を開いた。
「情報によりますと、概ね、シュレイザー公の報告に間違いはないようです。ですが、何かしらの防衛システムが作動したのもまた事実でしょう。それが魔法の類いなのか、それとも新手の魔導具によるものなのか」
「そのぐらいはわかっておる。私が知りたかったのは、どのような迎撃システムを実装したかだ。襲ってきたのはあのケツァールカトラスだぞ? あのような化け物、ただの一撃で倒せるはずもなかろう」
「確かに……」
仏頂面となる宰相に、ムーランはただただ、頬をかくばかりだった。
魔物がなぜ聖都上空に飛来したのか、なぜシュレイザー公爵家に突っ込んでいったのかについては、何もわかっていない。
東の空から飛んできたことだけは複数の目撃情報によって確かとなっている。
そしてその際、おかしな光に誘導されるように飛んでいたという意味不明な情報まで入手している。
ただそれだけしか情報はなかったが、とある事実を憶測するには十分すぎるほどの情報量だった。
つまり、もしこれが真実であるならば、今回の一件に東の帝国が絡んでいるのではないかということだ。
帝国のみに生息する化け物が光に誘導されて飛んできたわけだから。
しかし、確たる証拠は何もない。
そしてなぜか、まるでシュレイザー公爵家を狙うようにして飛来してきた。
だからエッフェンベルガー宰相は詳しい事情を知りたかったのだろう。
現陛下や敵対派閥相手に毎日頭を悩ませてはいるが、この国を正しい方向へと導こうとしている愛国者の一人であることに変わりはない。
そんな御仁が国の大事に関わる厄介事をみすみす放置するはずがない。
ムーランはそう一人勝手に納得した。
「まぁ、あの小童の屋敷には何度も賊が侵入しておるからな。殿下暗殺未遂事件はもとより、あの家の娘もなんらかの事件に巻き込まれたという風の噂を耳にしておる。それで防衛力を強化していたのが幸いした、というのが事の真実なのだろうがな」
呟くように口にした宰相に、ムーランは「なるほど」と、頷く。
「そういえばそんなこともありましたな――まったく。王族が参加する夜会に賊が入り込むなど言語道断。ましてやそれを未然に防ぎきることができんとは。やはり、シュレイザー公も所詮はその程度の男だったということですかな」
「さてな」
興味なさげに答える宰相。
しかし、ムーランは宰相が語った話の内容に引っかかりを覚えていた。自分が知らない内容が含まれていたからだ。
「ところで閣下。先程おっしゃった事件とはなんでございましょうか? 何やら娘が巻き込まれたとかなんとか」
「あれか……。詳しくは知らん。だが、暗殺未遂事件よりも前に一度、賊に入り込まれたという知らせを密偵より入手しておる。一応は未然に防ぐことができたようだがな」
「ほう……左様ですか」
「まったく。どこの誰だか知らんが余計な真似を。もし最悪、奴の娘が暗殺でもされていたら、とんでもないことになっていたぞ?」
「とんでもない……でございますか?」
「わからんか? よく考えてもみろ。あの小童の身内を手にかけ喜ぶ奴がいたとしたらそれは誰だ?」
「それは……奴が普段いがみ合っている最大の敵である……」
ムーランはそこまでしゃべってはっとなる。
エッフェンベルガーは忌々しげに舌打ちした。
「当然、単純な奴ならそう考えるだろう。そしてその中には誰がいる?」
見る見るうちに表情が強ばっていくムーランは、ただ押し黙ってしまうだけ。
宰相はうんざりしたように天を仰いだ。
「本当に厄介で面倒な事件ばかりが起こる。今回のことといい、かつての事件といい、どこの誰だか知らんが、シュレイザーを怒らせて内乱でも誘発させるつもりか?」
そう、独りごちたあと、
「まぁよい。ともかくだ。最近は都内にも不審人物が多数潜り込んでいるという情報も流れてきておる。決して警戒を怠るな。よいな?」
「はっ。グリューエンバルト卿に厳命しておきます」
ムーランは敬礼しながら鉄騎兵団団長の名前を口にする。
宰相は睨み付けるように更に続けた。
「よいか? 絶対にこの聖都を戦場にしてはならん。この都は常に光り輝いてなければならんのだ。すべて捕らえて尋問しろと、そう奴に伝えておけ」
宰相はそう命じ、
「あとは陛下にも、あまりうろつくなと釘を刺しておかねばならんな。現政権に倒れられてはこちらが困るのでね。この聖王国は世界に覇を唱える強大な国家に昇華させねばならんのだからな――たく。やることが多すぎる」
エッフェンベルガー宰相はそう、難しい顔をしながら呟いた。
◇
宰相の執務室をあとにしたムーランは、背後から近寄ってくる腹心の気配に気が付き、振り返りもせず口を開いた。
「やれやれだな。閣下ではないが、本当に面倒事ばかりが起こる。貴様もそうは思わんか?」
「……そうでございますね」
どこか幽鬼のように精彩を欠く黒髪の男がぼそっと答える。
「ちっ……相変わらず気味の悪い奴らだ。まぁいい――おい、ジェイド。伝令だ。グリューエンバルトにこう伝えておけ。『すべては我が主の御心のままに。決して街に被害は出させるな』とな」
「了」
男は呟くように応じると、現れたときと同じように音もなく消えた。
ムーランは立ち止まると、男がいた場所を見つめて顔を歪めた。
「閣下が理想とする未来を作り上げるためとはいえ、あのような者たちを使わなければならんとはな。本当に世はままならん。だが――」
ムーランは自身が掲げる未来絵図を脳裏に思い描き、恍惚と、両腕広げて天を仰ぎ見た。
「すべては神のご意思よ。俺も閣下も陛下もこの国の民たちも、すべては神を神たらしめんがために存在している単なる歯車に過ぎない。ゆえに、我はあなた様の御為に、存分に働かせていただきましょうぞ」
――さすれば、それが結果的に、閣下の御為にも繋がる。
ムーランはただひたすらに、口元を歪めて笑い続けた。




