逃げ道
甘い香りが鼻腔を掠め、心利は目を開けた。
目を開いても相変わらず視界は暗いままで、手探りでお腹に触れるとズキンッ、と痛みが走る。
「起きたのか」
暗い部屋に、高く澄んだ声が響き渡る。
どうやら、この部屋の持ち主のようで、こちらに近づいてくるのが影で分かる。
あれ?だったら真っ暗じゃないような…。
矛盾に首を傾げていると、その人物は私が寝ているベッドの脇机から四角い箱を取り出した。
シュッ、と擦れるような音に続き、オレンジ色の灯が室内を仄かに照らす。
ファンタジー映画に出てくるような古いランプに炎を移し、私はやっとその人物の顔を見ることができた。
何があったかよく分からないが、この人が助けてくれたのは間違いないだろう。
お礼を述べようと顔を上げた瞬間、凍りついた。
少し撥ね気味の黒茶の髪。
吸い込まれそうに濃い緑の瞳。
血管が透けて見えそうなほど白い肌。
私の頭の中を運動神経、頭脳明晰、容姿端麗、など四字熟語が駆け巡る。
私はなんて奴に助けられたのだろう。
目の前にいるその人物は、私が大っ嫌いなアイツ。
「噂通りの間抜け面だな。音子心利?」
天照ハル。
その人だった。
コポコポコポ、と白いマグカップにいいにおいの紅茶が注がれていく。
においにつられ、一口飲んでみると、今まで家で飲んできた紅茶とはまた違った味がした。
うちはそこまで紅茶に思い入れはないのでいつもティーパックで適当に入れているが、これは…
「茶葉の原産地から直輸入した。製法はCTC製法で短時間で抽出できる。ミルクも産地直送だ。この茶葉 はミルクティーに最適だからな」
紅茶のうんちくを延々語り出しそうなハルを止め、心利は先程の不審人物について問いただした。
「さっきの…変な人。いったい誰?しかも私う、う……」
どうしても声が出てこない。
からからと咽が渇き、私は紅茶を一気に飲んだ。
一瞬ムッとした顔をしたハルだったが、すぐに無表情に変わる。
「…死ぬかと、思った」
そう、死ぬかと思った。
改めて口に出し、視界が歪む。
フラッシュバックしたあの光景も思い出し、透明な雫が頬を伝ってシーツに染み込んだ。
「―――忘れろ」
一言。
短く告げられた。
こんな目にあって忘れろ、と言うこいつはやっぱり最悪な奴だ。
でも、今は言われた方が楽だった。
ここから先は、きっと私みたいな一般人が踏み込んではいけない場所だ。
ん?こいつ逃げ道を作ってくれてる?
まさか、ね…。
「今日一日は置いてやる。でも部屋からは出るな。制服は洗濯しておいた」
そう言って指された机の上には、綺麗に折りたたまれた制服と私のカバンが置いてあった。
噂と現実は違うと言うが、以外に優しい面もあるようだ。
一応、お礼は言っておこう。
助けられて、ここまでされたのだから。
「ありがとう、天照君」
「…天照君」
微妙な顔をしたものの、何事もなかったように出口に向かって歩いていくハル。
しかし、出口の扉の前で止まり、行ったり来たりし始めた。
何がしたいんだ、こいつ。と思ったものの、何も言わず、そっとしておくことにした。
ベッドに潜り込み、さあ、寝よう。とした時、ハルがボソボソと何事かを呟いた。
「え?何?」
「っ…だ、だから!」
変に力んでいるのが見なくても分かった。
「は…ハ、ル…でいいっ!」
大声でそう叫ぶと、扉を開けっ放しにしたまま走り去っていった。
開け放たれた扉がキィキィと鳴き、パタンとしまった。
いつもの自分なら、扉が勝手にーっ!とか叫んでいるところだが、頭は今しがた起きたことで手一杯だった。
『は…ハ、ル…でいいっ!』
…困った。
ハル、なんて呼んだら明日から女子の視線で殺される。
あ、でも元々学校来てないからいいか。
ツンデレ万歳!\^▽^/