クローン
「笑えない芸人」の原稿も書き上がりました。
来週くらいに公開予定です。
<前編>
ぐにゃりと地面がこんにゃくのようなやわらかい物体のようになって、僕の身体が底なし沼に沈んでいくような感覚がした。だけれども実際にはそんなことはなくて、うまく足に力が入らなかっただけなのだと気が付く。今が朝なのか昼なのか夜なのかさえも判然としない。カーテンをしゃっと開けるとレールの隙間からフックが2,3本取れて床に転がった。窓の外は日が落ちて真っ暗だった。網戸をすこし開けて息を吸うと肺の中がいっきに冷やされて、口内や鼻腔から煙のような白い気体がしゅうと漏れた。寒い。そんな感想を抱いたのはしばらく時間が経ってからのことだった。
ずきずきと片隅で痛みを発する頭をもたげながら、スマートフォンでSNSをチェックしていると、意味のないツイートが流れてきた。「明日からまた学校だ~!」という呟きに条件反射でハートを付けてからハッと我に返る。世間は休みだったのか。そして今はもう夜で、もうすこししたら寝る時間だという現実が無言の圧力で迫ってくる状況なのか。眠くないのに。
明日もかなり忙しくなりそうだ。
この頃は人手が足りないせいで、夜勤の回数が多い。
あまりにも昼夜が逆転した生活を送りすぎて、曜日の感覚だけでなく、時間感覚も消失しかかっている。
はあとため息を吐く。脱力しすぎたせいで左足に重心が傾いた。そのせいで水疱に乗ってしまい、鈍い痛みの電気信号が緩慢に脳に刺激を送った。
僕は顔をしかめながらもリモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。
なるべく立ちたくないから、カーペットの上に寝転がった。
ちょうどテレビ通販の時間帯だったようで、焦げ付かないフライパンのCMをすっ飛ばして他局に変えても、吸引力の変わらない掃除機の宣伝なんかをしていた。国営放送はのんきに3分間で料理を作って喜んでいる。「面白そうなのは何もなさそうだ」僕はそうひとりごちて、ザッピングをやめようとしたところで、ある商品の広告に目が留まった。よくあるテレビショッピングに相違ないが、そこで取り扱っている品物が僕のアンテナにシグナルを送ってきた。
「日々の業務でお疲れのあなた。もうひとり自分がいればいいのに。そんな経験、ありませんか?」
よく日焼けした浅黒い肌の中年男性が、品のいいツイード姿にさわやかな笑顔を浮かべた。
僕はずしりと重い頭を液晶画面に向ける。石油ストーブの温風が顔に当たっていた。
「それももうご安心ください。まずはこの眼鏡をかけていただくのですが……」
要約すると、こんな感じだった。
それを購入すると、まずは特殊な眼鏡が送られてくる。
その眼鏡をかけていると、脳波や微弱な電気信号をAIが解析してくれる。
しばらくすると集積したデータをもとに、自分の容姿や性格だけでなく、趣味や嗜好、能力を反映した分身が出来上がるという仕組みだった。データ解析が終了した特殊眼鏡を本社に送り返すことによって、こちらはクローンが受け取れるのだった。
使用料金の欄を一瞥する。
それは月額制のサービスで安くはなかった。
僕は思案にふけったが、流暢に日本語をあやつって商品を紹介している、浅黒い肌の中年男性が、実はクローンであったことに番組後半で驚かされてその勢いのままに購入することを決めてしまった。
僕の職業は介護福祉士だ。
それなりに人と接する職業だし、もしもクローンだとバレた場合はどうなる?
そう頭を悩ませはしたものの、比較的に労働者の多い日勤では使用する頻度を抑えて、夜勤の時にだけ試験運用をしてみて、実用の機会があるかどうかを判断することにした。まずは特殊眼鏡をかけた生活に慣れなければいけない。
<後編>
特殊眼鏡を返送して、僕はクローンを受け取った。
この人形には体調不良も反映されるのだろうか。
そんなことを考えながら便器に顔を突っ込んで胃液を流した。
このところの超過勤務にはすさまじいものがあった。
感染型ウイルスの流行によって、出勤停止を命じられる職員が続出したのだ。
そのしわ寄せで、僕は日勤も夜勤も連続して働くことが増えた。
いよいよこの身体にも死神の足音が近付いてきたと思った。
そこに救世主のように現れたのがこのクローンというわけだ。
僕はクローンをこっそりと職場に連れていくことにした。
最初は、人目に触れにくい夜間巡察だけを命令して実行させた。
次に、入浴介護も実践させてみた。
さらには、汚物処理も担当させてみた。
自画自賛のようだが、クローンはどの仕事も、僕と同じレベルでこなしてみせた。
僕は調子に乗って、1回だけ仕事をサボってみた。
その代わりにクローンに働いてもらうのだ。
自宅で寝転がっている間、僕は何度も職場に足を運びたくなった。
心臓の拍動があまりにも強すぎて気を失いそうになった。
だけどそれも杞憂だったようで、すべてはうまくいった。
「すごいな。想像以上の仕事ぶりだよ」
「雇い主の期待に添えて本望です」
木目調の白いローテーブルを挟んで、僕とクローンは祝杯を交わした。ビールは嫌いだけど、カクテルやサワーのような甘い物は好きという特徴まで同じだったので、お互いにいちごチューハイのアルミ缶をぶつけて「乾杯」と合図をした。
「おでんを煮たんだけど、お前も食べるか?」
「いいんですか? 恐縮です。いただきます」
僕はスーパーの総菜売り場でパック詰めされていたおでんを鍋で温めただけの代物を皿に盛りつけてクローンの目の前に出した。ついでに冷凍食品のから揚げやシューマイも食卓に並べる。「まだ練習中だからおいしくないかもしれないけど……」などと見えを張って自作料理であるかのように語ったが、自分と同じ味覚を持つクローンならばすぐに冷凍食品だと気付くかもしれない。
「ご主人は手料理がお上手ですね。冷凍食品ではなかなか出せない味ですよ」
皮肉なのか、本気なのか、彼は冷凍食品を箸でつまみながら微笑んだ。
我ながら、そうやって本心を韜晦されるのは気持ちが悪かった。
そういう意味では、クローンはいい反面教師になれるのかもしれない。
「今度はもうちょっとシフトを増やしてみようかな」
僕は2本目のはちみつレモンチューハイのプルタブを開けるのを契機にそう切り出した。
相手はあわてておでんの具を飲み込んだ。そして言う。
「これ以上は僕も辛いので、増やさないで頂けると幸いです」
すこし赤らんだ顔でジンジャーハイボールの空き缶をカーペットに置くのを見ながら、こいつも相当ストレスが溜まっているんだなと僕はほおづえをつきながらそれを眺めた。酒を飲むペースがいつもよりも早かった。
「ちょっと部屋の喚起をするか」
そう網戸から新鮮な空気を取り入れる。火照った身体にちょうどいい風だった。
自分が2人いるというのはリスクでもあるが、それと同様に便利でもあった。
そして主従関係がしっかりしているのも掛け値ない魅力である。
豚もおだてりゃなんとやら。自分だっておだてられれば木にも登るだろう。
「大丈夫。お前は僕なんだから。耐えられるさ」
窓を閉めて、クローンを励ましてみる。
彼は黒目の大きな瞳で、じっとこちらを見つめてきた。
何も言わず、ただ無言で。
僕はその瞳の奥に吸い込まれそうになった。
やがて、返答があった。
「わかりました。やってみますよ」
りんごサワーに口をつけて、ふぅっと息を吐きながら応じる姿勢を見せる彼。
うまく説き伏せることができたのか? それとも何か裏があるのか?
他でもない、相手が自分自身であるだけに、心が読みにくい。
「……頼んだぞ」
腹筋は割れているくせに、腹を割って話さない。
そんな表情のないロボットに対して、僕はウソの言葉を吐く。
「信用してるからな」
信頼しているとは、意地でも言えなかった。
「はい、任せてください」
そう喜色満面の笑みを浮かべながら食器を片付け始めるクローンを、僕は仕方なく手伝って恩を売ろうと努めた。なんならここで信頼関係を築いておきたい。あとで裏切られるのだけは御免こうむる。
「行ってきます」
アラームが鳴る前に起床して、あらかじめスイッチを切って、自分で食べる用とはべつに僕の料理も準備して、窓をうすく開けて喚起を施して、出社の準備が整った段階でクローンは声をかけてきた。僕はベッドから根が生えたように動きたくなかったので、「ああ、行って来いよ」とだけ言ってもう一度浅い眠りについた。
だからこそ知らなかったのだ。
彼が会社内で特殊眼鏡をかけるようになっていたことを。
それに気付くのは、請求書が届いてからの話だ。
仕事が忙しかったので、それを作品に込めました。