1話 天国と地獄
「お世話になりました」
暖かな初夏、快晴の日、フラヴィは深々と頭を下げた。騎士団を辞職してから1年の月日が経っていて、当時20歳だったフラヴィは21歳になった。
「今までお疲れ様。次に行く当てはあるの?」
「仕事の目処はついていないのですが、行く場所は決めているんです。クラレイフという町なんですが」
「そりゃあまた随分と田舎じゃない。どうしてそんなところに?」
「私を知っている人がいなそうな場所がいいのと、それと……」
目の前の寮母は優しげな顔でフラヴィを見つめている。フラヴィの今後を案じているのだ。
「……海があるので」
「海、好きなのね」
寮母の言葉に、フラヴィは曖昧に微笑んだ。寮母はふっと目を細めて、そっとフラヴィを抱きしめた。フラヴィも彼女を抱きしめ返した。
「あなたは美しく完璧だった。だけどもとても不憫だわ」
「ですが私は今、とても晴れやかな気持ちですよ。ここからようやく、私は私になれます」
「ええ、元気でね。もう二度と会うことはないでしょうけど」
「はい、本当にありがとうございました」
いくらかの現金と菓子類、最低限必要なものを詰め込んだ鞄。適当にまとめた髪と飾り気のない服装でも、道行く人が振り返る美貌。天使の羽のように輝く白い髪と、柔らかな菫色の瞳。21歳の若々しさ。
フラヴィ・ラプラスは、かつてこの国の騎士副団長だった。騎士になったのは15歳だ。16歳の時に敵の不審な動きに気付き、罠を回避し損傷を抑えたことで、第二班の班長になった。次に剣術大会での優勝。そのように功績を積み上げていき、20歳になる頃には誰もがフラヴィの実力を疑わず、副団長就任に反対する者はいなかった。ついた呼び名は「神騎」だ。
しかし彼女は今、ただの民間人だ。地位も名誉も全て失ったが惜しくはない。生きるとすれば、静かな場所で慎ましく平穏に。そうしてただのフラヴィとして死んでいく。それが彼女の望みだ。
2日間かけて移動し、クラレイフの地を踏んだのは早朝だ。都会でしか暮らしたことのないフラヴィは、その清涼な空気を胸一杯に吸い込んで口角を上げた。
辺りに人の気配はない。と言うよりも、周りにあるのが山や海、畑ばかりなのだ。フラヴィはひとまず住居に向かうことにした。
朝露で煌く草花が揺れる道を進み、しばらくすると小さな宿が見えてくる。フラヴィが住むのはその宿のすぐ近くにあるもうひとつの小屋の2階だ。鍵がないのでどう入ろうか悩んだが、ダメ元で押してみると扉は簡単に開いた。
「無用心だな……」
扉を開けたはいいものの、本当に入っていいのかと悩んで挙動不審になる。少しの間そうしていると、後ろから声をかけられた。
「ああ、もしかしてフラヴィ?」
「えっ?」
帽子をかぶって首に手拭いを巻いた女性が、土の付いた野菜を片手にぶら下げたまま汗を拭った。畑の世話をしていたらしい。女性は人の良さそうな大らかな笑みを浮かべ、フラヴィを小屋の中に入るよう促した。
「あたしはマルティーヌ・ルブラン。この宿と小屋はあたしのなのよ。マティとでも呼んで」
「フラヴィ・ラプラスと申します。どうぞよろしくお願いします」
「よろしくフラヴィ。さて、とりあえず荷物運んじゃいましょうか。これだけ? 随分身軽なのね」
荷解きを手伝うつもりだったマティだが、その必要はないと知って目を瞬かせた。
身なりも荷物も何もかも、フラヴィはあまりにシンプルだ。元々多くのものを持ったこともない。
「そうねえ……それじゃあひとつお願いしていい?」
「なんなりと」
「そんな礼儀正しくなくたっていいんだよ。今から朝ご飯作るから、娘を探して呼んできてくれない? 髪をふたつに結んでて、多分その辺で野苺でも採ってると思うから」
「はい、分かりました」
「迷わないようにね!」
荷物を置いたら散策したいと考えていたフラヴィは、二つ返事で森へ出掛けていった。それにクラレイフに到着したら確認しておきたい場所もあった。
周辺を見渡しながらも持参したコンパスと地図を頼りに、フラヴィは森の中を進んでいった。途中途中でマティの娘を探したが、どうやら近くにはいないようだった。
しばらく歩くと、目的の場所はすぐに現れた。打ち付ける波の音、ひんやりと冷たい空気。
「着いた……」
海水が岩壁を叩き、空気をかき混ぜて抱き込んでいる。水の匂いはするが、潮の匂いはあまりしない。水平線が光を反射して輝いている。日射しを遮るもののない、暖かな岬だ。それに反して波は激しく容赦がない。
フラヴィはぼんやりと、天国と地獄を同時に詰め込んだようなこの場所を絵画にしたら、さぞ美しいだろうと考えた。
大罪を犯したあの日から、フラヴィはずっとここに来ようと決めていた。これからの人生をどう生きるかに関わらず、この光景を見ておきたかった。
ほんの数分佇んで岬を堪能したフラヴィは、マティの娘を探そうと、踵を返して森の中へと戻った。
逃げる狸の尾や兎の後ろ足を目で追っていると、ガサガサと茂みが揺れる音が聞こえ、フラヴィは念のために腰に携えた短剣に手をかけた。しかし現れたのはただの野兎で、フラヴィのことなど気に留める様子もなくすぐ横を駆け抜けていった。
「……気を張りすぎだろうか」
フラヴィは肩を回して大きく息を吐いた。改めて見渡してみると、たまに足場が悪い以外は非常に平和的な、早朝の心地良い静寂を取り込んだだけの森だ。
まさか自分がこんな所に来られるとは、とフラヴィはしみじみと噛み締めた。しかしそれは耳に人の声が割り込んだことで破られた。
「うわああん!」
泣き声のような叫び声のような、幼い声が響いて、フラヴィはそちらに向かって駆け出した。もしやマティの娘だろうか、一体何があったのか。急いで走るフラヴィの前に、何かが飛び出してきた。
「うわああん、狐が出たあぁ」
「え?」
突然腰に縋り付かれて、フラヴィは固まった。子どもを追い掛けてきたらしい狐が、散らばった黄色い果実を貪っている。
辺りに落ちたそれらを食べて満足したのか、狐は特に何をするでもなく立ち去っていった。フラヴィはそこでようやく、未だに自身の縋り付いたままの子どもの頭を撫でた。
「もう狐はいないよ」
「ほんと? ほんとに?」
「本当だとも」
「お姉さん、だあれ?」
フラヴィはその子どもが髪を2つに結んでいることに気付いた。もしやマティの娘だろうかと、膝をついて目線を合わせた。
「私はフラヴィ」
「フラヴィ?」
「そう。フラヴィ・ラプラスだ。君は?」
「ノエラ!」
「そう、ノエラ。マティ……マルティーヌさんのお嬢さんかな?」
「マティはあたしのお母さんだよ!」
警戒心も猜疑心のひとつもない笑み。かつて自分が持っていたであろうものを惜しげもなく晒すノエラを見て、フラヴィは胸の奥が少しだけ痛んだ。
これが、フラヴィ・ラプラスとノエラ・ルブランの出会いだった。




