明智光秀の追放後の足取り
本能寺の変で信長は死なず、生きていた。
それと同時に、光秀もまた、死なずに生き延びていたとしたら…。
光秀「しかしそのかわりに、どこの誰とも判らぬ落ち武者が1人、農民に化けた刺客たちの竹槍に突かれ、命を落とした。
あの農民に化けた刺客たちは、身なりはただの百姓だが、
実は羽柴秀吉によって、金で雇われた刺客たちであったようだ。
もともと草履取りの百姓から今の地位に成り上がった羽柴秀吉なら、百姓たちを利用して、そのくらいのことは、やっても不思議は無い。
実際、その刺客の者たちは、この光秀の身代わりとなった落ち武者を手にかけた後に、1人残らず、口封じのために斬り殺されたという。」
この光秀の証言が事実であるという証拠は実際には無く、諸説ありとされるが、
光秀はひとまず、腹心の斉藤利三らとともに、落ち延びていた。
そして光秀が訪ねた先は、徳川家康のところだった。
光秀は山崎から、各地を転々としていたが、やがて尾張の清洲を通り過ぎ、三河の岡崎城へと向かった。そこからさらに、駿河、遠江方面へと向かい、ようやくたどり着いたのは、浜松城だった。
光秀「家康殿、かたじけない。」
実は家康としても、信長の策略によって、嫡男の信康を失い、信長との確執が無かったとは言い難い状況だった。
家康「光秀殿、ここはひとまず、東国まで逃げ延びるより他ございません。
関東の北条氏政、東北の伊達政宗らを頼るがよろしかろう。
信長様は本能寺の変で討たれることなく生きておった、ならば自らを討とうとした者たちを、決して許すことはないであろう。
手勢に見つかれば、間違いなく落ち武者狩りと称して、討たれることは必定。」
光秀「まことにもって申し訳ない。この光秀が、信長公を本能寺にて確実に討ち果たさなかったばかりに…。
家康殿、直接関係の無いそなたまで巻き込んでしまい、申し訳ない。」
光秀はこの後、東国へと逃げ延びたという。
やがて天海大僧正と名乗ることになったという。
この天海大僧正が、後に家康の助けとなり、徳川家に助言を与える役割を担うことになる。
一方、重臣の斉藤利三は、自らの娘、お福を家康に託した。
このお福が後の春日局になることになる。
家康「光秀殿、生きて、生きて、生き延びよ。
このままいけば信長様が天下をとることは、もはや誰にも揺るがすことはできぬ。
この徳川とて、いかなることになるか、わからぬ。
織田はいずれ、徳川をも潰しにかかるやもしれぬ。
光秀殿、再びこの家康がそなたを出迎えるその時まで、この家康も生き延びなければならぬ、ここで死ぬわけにはいかぬのじゃよ…。」
その後、柴田勝家もやってきて、茶々、お初、お江の3人の娘たちを家康に託すと言い残し、立ち去っていった。
その後、柴田勝家もその妻、お市の方も相次いで命を落としたが、詳細については一切公表されなかった。
ただ、恐ろしく腕の立つ、1人の剣士と刀を交えた後、柴田勝家はその剣士に討ち取られ、一方お市の方は、その後を追って自刃したという。
その剣士の正体が何者なのかは知らない。
それからまもなく、今度は毛利輝元が信長のもとに和睦を申し出てきた。
これで越後の上杉景勝に続いて、毛利輝元もまた、織田に和睦を申し出る形となった。
情勢は刻一刻と移り変わっていた…。