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時田旅人、いきなり信長の家来に採用!そして天正少年使節団の話に入る

伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアン、後にこのように名乗ることになる少年たち。


1582年、本能寺の変が起きたその年に、

天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)』として、この4人のキリシタンの少年たちが、ローマ教皇への謁見(えっけん)のために派遣された。


目指す先は、ポルトガルのリスボンだ。


同じ頃に、時田旅人はというと、なぜかいきなり信長の手によって、森蘭丸らと同様の近習として採用されたのだった。


時田旅人「ええっ!?拙者が信長様の近習ですか!?」


信長「さよう。」


家臣「しかし、このような素性も知れない浪人者を、いきなり近習として雇うなど…。」


信長「案ずるな。この者はこの信長の直属の近習として、余の好きなように扱うことにする。

したがって、もし不手際があれば、その場にて手打ちにすることも、この信長の自由だ。」


まさに『泣かぬなら殺してしまえほととぎす』とは、この事だ。


それから信長は『天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)』として派遣した、

あの4人の少年たちのことを気づかっていた。


敵の大名や仏教勢力に対しては冷酷非情な信長が…。


信長「あの4人の少年たちのことは気にかけておる。

できれば、彼らが帰国した時は、生きて生き延びて、余が自ら彼らを出迎えてやりたいと思っておった。

だから、本能寺にて死ぬわけにはいかなかったのじゃ。」


信長はキリシタンに対してはむしろ寛容だったと思われる。


対して、秀吉はバテレン追放令を出し、さらにその後、家康もキリシタンに対しては僻地への追放、居住区の制限、そして実際に取り締まるという弾圧を進め、そしてそれが後の鎖国体制につながっていったという。


信長「おぬし、もしや未来の時代からここにやってきたのか。

そしておぬしは歴史を詳しく学んでいると見た。

さようか、それがおぬしの時代にて学んできた歴史か。」


時田旅人「他にも、拙者が以前生きていた時代の知識を、信長様に授けましょうか。」


信長「わしの野望は、国内の統一だけで終わるような、そんなちっぽけなものではない。

いずれは海を越えた先の、どこまでも広がるこの世界の全てを、この信長のものにしたい。

が、さすがにわしもこの年じゃ。できれば不老不死の秘薬でもあれば、永遠に若くいられるのじゃが…。

わしには信忠、信雄、信孝という3人の息子がおるが、果たして誰に跡目を継がせるかのう…。」


そこに、越後からの報告が届いた。


「申し上げます!越後の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)和睦(わぼく)を申し出てきました。

この和睦(わぼく)を受け入れるか否か、迷っておいでとのことです。」


信長「かまわん。上杉との和睦(わぼく)を受け入れよう。」



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