第3話
桜が耕介を連れてきたのは、ゲームセンターなどが入っている建物の一角にあるボルダリングが出来る広場だった。
「あんた、死にたいんでしょ?」
「はい、死にたいです」
「これくらい登れないと、高いところ克服できないよ」
豊富な色の突起物が付いている壁はそんなに高くは見えなかった。
「いくらなんでも、これくらい余裕ですよ」
「同じ色を掴んで登るんだよ」
そんなルールがあるのかと耕介は思った。桜は手本を見せるかのようにスタートの突起物を掴み、テンポよく足と手を動かしながら、ゴール地点の突起物に両手をぶら下げた。
「初心者コースなら余裕だね」
「先輩、なんでそんなことできるんですか?」
「私、運動神経はいいから」
耕介は桜にはますますイジメられる要素がないと感じた。体育の授業がある小、中、高校は運動ができることを周囲に知らせるチャンスが多く、運動ができて嫌われることはまず無い。
「あんた、なんでそんな意外そうな顔で見てくるわけ? 私が運動なんてできないとでも言うの?」
桜の青白い顔を見ながら、耕介はつい頷いてしまいそうだった。日の光に一度も浴びたことが無さそうな顔色と運動は結び付かなかった。
「先輩って……、引きこもりじゃないんですか?」
「はあ?」
桜が今にも股間を蹴りそうだったため、耕介は一歩後ろへ下がった。
「私、ちゃんと学校行ってるし」
そうかと耕介は思った。引きこもりは学校に来ることはない。そういえば桜のことで知っていることは何も無かった。一学年上であることは桜から聞いていたが、何組かも耕介は知らない。学校で耕介と桜が会うのは屋上だけで、それ以外ですれ違ったことはない。耕介が死のうと思ったタイミングで、たまたま死のうと思っている桜に屋上で出会った。二人の繋がりはそれだけだった。
「ほら、あんたもやってみな」
桜は耕介の股間は蹴らなかったが、尻を叩いて、壁際に立たせた。
「さっき、私が捕まったところにぶら下がって」
耕介は桜に進められるがままに位置に付いた。壁にぶら下がって、上を見ると、思ったより反り返っていることに驚いたが、想像通り高さを感じることはなかった。もちろん下を見ても、すぐ床であり何も怖がる要素はなかった。
「やってみます」
「やってみな」
耕介は何の躊躇も無く、同じ色の突起物を掴みながら、桜と同じように登って行った。そしてすぐにゴール地点に辿り着いた。
「できまし……」
耕介は到達したことを桜へ報告しようと下を見ると、思っていた以上の高さにいることに気が付いた。急激に手に汗をかき、脇や額からも汗が噴き出るのを感じた。耕介は頭の中が真っ白になった。
――大丈夫、飛び降りて――
どこかから聞こえる声に耕介は手を離した。すぐに足は床につき、尻持ちをついた。
「ね、大丈夫でしょ」
あの声は桜の声だったのかと耕介は思った。手にはまだ汗がたくさんついており、自分が今さっきまでいたところを見た。意外と低い場所にゴール地点があることに驚いた。あの程度の高さで頭がパニックになっていたのかと思うと、情けなかった。
「ね、大丈夫でしょ」
桜はもう一度声をかけた。
「大丈夫です」
耕介は強がった。
「じゃあ、もう一度やってみなよ」
「いや……もう」
耕介が断ろうとする間もなく桜は耕介の背中を押して壁際に立たせた。
また耕介は上へ登り、頭の中が真っ白になり、桜の声を合図に床に落ちた。今日、あの恐怖体験を何回しただろうと耕介は考えた。床へ落ちる度に、自分の情けなさが増していったが、恐怖の度合いは反比例していることも感じた。
「もう高所恐怖症治ったんじゃない?」
帰り際に桜をそう尋ねたが、
「こんなんで治るわけないですよ」
耕介はいつも通りの返事をした。しかし、耕介はボルダリングに関しては、それほどの高さがないことを認識し、落ちても大きなケガをしないことも感じていた。明らかに、終盤は高いところへ登ること、飛び降りることへの抵抗は減っていた。
「毎週ね、これ」
桜は口角が上がらない笑顔で別れ際にそう言った。
それから毎週、桜から連絡が入り、ボルダリングをしに行った。耕介は桜からの連絡を期待するようになり、しかもボルダリングも楽しみになり始めていた。
中級コースも簡単に登れるようになった耕介は、これで自分はやっと高いところから飛び降りることができる、と思った。死ぬことができる、と思った。
夏休み最終日、耕介は桜を屋上に呼び出した。
「先輩、今までありがとうございました。ボルダリングは楽しかったです。そのおかげで、今日ここから飛び降りることができそうです」
桜はつまらなそうな表情を浮かべて「そっか」と言った。
「先輩もあとからちゃんと死ねることを願っています」
桜が答えるまで間があった。青い空に一つだけある雲が長い距離を移動している。風が強く桜の髪が大きくなびいている。そのせいで表情は見えない。
「私は死なないよ」
「えっ」
耕介は驚いた。一緒に死のう同盟だった桜からそんな言葉でるとは思ってもいなかった。この夏休みの間に気分が変わったのか。
「元々、死ぬ気はなかった。」
桜は驚くべき発言を続ける。
「あんたを助けに来たの」
桜は意味不明な発言を言っている。
「五年後も私と一緒にボルダリングしたいと思わない?」
耕介には桜が何を言っているのか理解できなかった。
助けに来た?
五年後?
「先輩、何言っているんですか? 五年後も先輩とボルダリングをしたいですけど、死ぬって約束したじゃないですか。五年後まで、このまま生きていけないですよ」
「あんたの趣味は何?」
「ないです」
「ボルダリングがあるでしょ。あんなに最後は楽しそうにやってたでしょ。怖いと思いながらやることにスリルを感じるでしょ。あんたには立派な趣味ができた。同級生からイジメられても発散できるようになったよ。しかも、このまま続けていけば、そのイジメっ子をあっと言わせることができる!」
「なんでそんなこと分かるんですか?」
理由も分からずムキになっている桜に耕介は苛立ちを覚えた。そんなこと分かる訳がないではないか。
「私は未来から来た。五年後、再びあなたと出会う。ボルダリングをしていたら出会う。そのとき、あんたは今とは大違いな笑顔を見せている。私はその笑顔に救われた。五年後のあんたが、高校生の頃死にたかった気持ちを私に話してくれた。だから私はあんたを助けに来た」
「そんな……」
「本当だよ。真実が知りたいなら、五年後まで生きて私と会って」
桜は忽然と姿を消した。
何かの夢でも見ているような気がした。ただ桜と過ごした夏休みは楽しかった。こんな感情は今までに無かった。フェンスに近寄りながら、自分のマメだらけになった手を見つめた。
耕介はここから飛び降りることはできると思った。ただ、それでは桜と会うことができないし、桜の言っていることが本当なら、自分がいないと桜は死んでしまう。
桜は死ぬことを約束していた仲間だったが、生きることを約束させられた。
今までの夏休みが夢だったかもしれない。でも、趣味も作ってくれた、生きる目的も与えてくれた。桜は俺を元気にしてくれた。
だから、俺はこのまま生き続ける。