第2話
夏休みの遊園地には幼い子供連れの家族や、小学生の集団で賑わっていた。この混雑では、誰かが吐いた空気をすぐに吸わなければいけないくらい人と人が密着している。耕介はその必然に吐き気を覚えた。
「先輩、なんでこんな所に来たんですか」
股間はもう蹴られたくない。耕介はしっかりと「先輩」と呼んだが、明らかに不機嫌そうな顔を浮かべて、桜に尋ねた。
「はあ? 分かんないの?」
幸の薄い顔と発言が全く合っていない。これが桜の良さであり、悪さでもある。見た目とのギャップが不愉快に感じる人もいるだろう。
「こっちおいで」
桜は耕介の腕を強く掴み、何も言わずに引っ張り歩きだした。
「痛い、痛い、痛いですよ!」
桜は耕介の痛がる様子は気にも留めず、人差し指で目の前の大きな機械の塊を差した。
「じゃーん」
すごいことを発表するかのように、両手を大きく広げて、桜は効果音をつけた。こんな陽気な一面があるのなら、同級生にイジメられることもなかったのではないだろうか。
桜は耕介の反応の乏しさを不服そうにしながらも、
「あんた、高所恐怖症なんでしょ。まずは高いところになれなくちゃ」
目の前のアトラクションの正確な名前は分からないが、『○○フォール』と書かれた看板が遠目に見える。機械の塊が上下に激しく動いている。なぜこんなものを作ったのか耕介は理解できなかった。そして耕介は鳥肌が立った。
「帰りましょう」
耕介は乗っている客が悲鳴を上げているのを聞き、アトラクションに乗ることは想像できなかった。耕介が一歩後ろに下がろうとすると、桜の表情が瞬時に変化した。今にも涙が出そうな表情だ。
「なんで? なんで、私のことを構ってくれないの! そんなのひどいじゃん!」
今まで聞いた中で一番大きな声を上げながら、手で顔を覆い、泣き声に近い声で桜はそう言った。近くを通る小学生がこちらを見て笑っている。まだ歩きたての子ども連れの夫婦も心配そうに耕介と桜を見ている。耕介はこの状況が恥ずかしくてたまらなかった。
「わ、わかりましたよ。行きましょう。乗りますよ」
桜は耕介の言葉で手を顔から離した。
「さっさとそう言えよ」
桜は、耕介をイジメている同級生よりも悪徳な人ではないかと思った。ただ、口角は上がらないながらも、かすかに見せた笑顔が耕介の胸をくすぐった。
耕介は桜に言いくるめられながら、そしてアトラクションの誘導員も桜の味方なのではないかというようなアシストをしながら、いつの間にか、さっき外から見ていた大きな機械の塊に座らされていた。
上からストッパーが降りてきて、耕介は身動きが取れなくなった。耕介は隣に座る桜の様子を見る余裕はなかった。耕介の足は震え、今にもパンツに漏らしてしまうのではないかと心配した。
誘導員が合図する。
「準備が整いました! 皆さんもグッド・ラック!」
耕介には誘導員が悪魔に見える。世の中の最も危険なイジメっ子。
どぉーーん!
アトラクションの発射音が響き渡った。耕介はもう自分の目的が叶ったのではないかと思った。死んだかと。耕介は自分がまだ生きていることに気付いた。
「どうだった?」
桜の顔に血が通ったように赤らんでいた。声は明らかに興奮している。それくらい顔に血の気があれば、とても美しい女性であることは誰もが認めるだろう。
「どうだったって聞いてるの!」
桜の質問に対して、桜の期待通りに耕介は答えたことはない。桜の顔の血の気はいつも通り戻り、青白くなった。
「さ、い、あ、く、で、す」
できるだけ桜を軽蔑することを示す表情で耕介は伝えた。
「そっか、そっか」
耕介も桜に負けず劣らずの血の気のない顔色になっている。足取りはおぼつか無い。機械の塊に全ての気力を吸い上げられてしまっていた。桜はそんな耕介を見て、満足そうにしている。
「高所恐怖症、治った?」
「こんなんで治る訳ないですから」
「なんだ、じゃあまだ死ねないね。同級生にイジメられて一生終わるんだね」
「そんなのイヤです」
「あっそう、じゃあ付いてきて」
耕介はこの貴重な夏休みを、なぜ自分の同級生よりイジメが上手そうな桜と過ごしているのか分からなかった。そもそも、耕介は死ぬつもりだった。それを桜といると忘れかけてしまう時がある。
気付いた時には桜に腕を掴まれて、耕介はある建物の前に来た。
「あんた、これ読んで」
桜は指で看板にある文字を差している。
「ボルダ……リング?」
「そう、ボルダリング。最近流行りでしょ。高所恐怖症を治すには、高いところに登るしかないでしょ。これも、自殺の練習!」