とりあえず、ご飯にしよう
ガチャンと大きな音を立て、いつになく乱暴に部屋のドアを開ける。
ああ、腹立たしい。イライラが収まらない。…というよりは、「悔しい」に近いのかも知れない。
直哉とは1年と2ヶ月付き合った。私は彼が大好きだったし、彼も私が好きなんだと、信じて疑わなかった。それなのに…。思い返すと涙が目に溜まる。
先輩と直哉がキスしているところを見た。私の尊敬していた先輩と、何度も、何度も。
それを見たとき、ああ、ふたりはきっと心の底から愛し合っているんだな、と悟った。お遊びなんかじゃなくて。
だったら…だったら邪魔なのは、私の方じゃないか。
…どうして、こうなってしまったんだろう。
考えたくもないことが頭をめぐる。忘れたいのにあの馬鹿みたいに絶望的な映像が頭から離れない。悔しい。苦しい。だけど、泣いたりするものか。絶対に泣いてやらない。
ピンポン
今の私の心情にはそぐわない、間抜けな音が鳴る。
「はい」返事をしながら玄関を開けると、そこには兄の圭介が立っていた。
「どうしたのお兄ちゃん」
驚いて問えば、兄は遠慮もなく玄関で靴を脱ぎながら答えた。
「今日実家に行ったら、春香が実家ぜんぜん顔を出さないって愚痴られたから様子見に来た」
「別に元気だよ」
生意気に言えば、兄は私の頭を乱暴にかいぐった。
「じゃあもう少し大丈夫な顔しような」
馬鹿みたいに優しい声で言う。そんなに落ちた顔をしていたんだろうか。
やめて。泣きたくなるでしょ。絶対に泣かないって決めたんだから。
俯いて必死に涙を堪える。
「そんな春香に朗報だ」
急にいつもの明るい声に戻って、右手に持っていた紙袋を私に突き出す。
「なに、これ」
「母さんがお前にって作ったごはんを、タッパに詰めたやつ」
温めてくる、なんて言う兄に、食べる気にならないと言いかけた。でも言わない。…悔しいから。
とにかく、直哉のせいで私がどうにかならなきゃいけないのが悔しい。
どうして泣かなきゃいけないの。
どうして食欲減退しなきゃいけないの。
あんな奴、私にとっては何でもないの。
ーーーそんな風に、この悔しさの原因を全部突き飛ばせるくらい、強くなりたいと思うのだ。
我ながら可愛くない性格だ。有り得ないくらいひねくれてる。
だから浮気されるのか。そんな考えが頭を過ぎる。
やめろ春香、非生産的だ。自分を心の中で叱咤する。
「春香、ごはん食おう」
温め終えた食事をテーブルにずらりと並べて、兄が手招きする。
「お母さん、ちょっと作りすぎじゃない?」
苦笑してテーブルに並ぶおかずの数々を見る。沢山並んだそれらは、私の好物ばかりだった。
「いただきます」
手を合わせれば、いつの間にか食欲も湧いてきて、少しだけ元気になった気がした。
まずは筑前煮を口に運ぶ。
味がしっかりと染みた柔らかいれんこんとこんにゃく、うすい茶色に染まったとろりとした里芋、噛めばじゅわっと旨みが広がるしいたけ。ごろりとしたごぼうを食べれば、昔はこの独特の風味が苦手だったと幼き日を思い出して、微笑ましく感じる。
母のレシピ通りに筑前煮を作ってみても、なんだかちょっと違ったのに。ああ、この味だ、としみじみ思う。私の大好きな味。落ち着く味。食べると昔を思い出す。やっぱり母は強しというやつだろうか。
「美味しいね」
「美味しいな。あ、次これ食べよう。白あえ」
「うん」
ほうれん草の白あえを口に入れると、なんだか少し違和感を感じた。いつもの、実家の白あえではない。
なんだか、固くて香ばしい…ピーナッツ? そうだ、これはピーナッツだ。
なるほど、面白い。いいアクセントになっていて美味しい。
「ピーナッツも合うんだねぇ」
感心したようにいうと、兄は嬉しそうにニマニマしながら、そうだろう、と言った。
「それは俺が作ったんだ。革命的だろ? いやぁ、我ながら美味しい」
「美味しいけど、革命的かって言われると…。別にほかの誰でもかも考えつきそうな感じがするけどね」
いい気になって鼻を高くする兄にすかさず憎まれ口をたたけば、むっと唇を突き出す。
懐かしい。こういうやりとりはいつものことだったな。思い出すとどうしてか少し悲しい気持ちになった。
そんな後ろ向きな気持ちはよそに、次は出し巻き卵を食べる。いつも卵焼きを食べる度に、母は天才なんだろうかと真剣に思う。
この口に入れた瞬間にふわりと広がる出汁の味と香り、主張しすぎずに出汁の風味を引き立てる砂糖と塩の加減、そしてそれらを包み込む卵の、口当たりが良く柔らかでありながら、決して曖昧ではなく、しかし硬すぎない、バラバラではない、絶妙な層関係。
本当に美味しいのだ。お店で出せるレベルではないかと本当に、今でも、思う。
私は母の料理の中で一番卵焼きが好きだ。
「お前は本当に幸せそうな顔をするな」
兄が微笑んで言う
「美味しいごはんを食べられて幸せなんですー。いつでもこういう顔をしているわけじゃないもの」
「そうだな。母さんの料理は世界一だしな」
兄は頷きながら言う。天才だの世界一だの、やっぱり兄妹だな、と思う。
「マザコンはもてないのよ」
また生意気に憎まれ口を叩く。
「認めるべくは認めるってだけだ。…というか、それはお前もだろう」
「そうね…マザコンなのかも」
目を伏せて言うと、兄はしばらく黙った。
「…お前、今日はずっと、なんか悲しそうだぞ。…何があった?」
まただ。その優しい声をやめろって言ってるんだ、この馬鹿。だけど、嫌じゃないのだ。
確かに悔しいとは思うけど、強くありたいとは思うけど、それでも本当は、誰かに愚痴を言いたいし、思う存分泣き晴らして、慰めてもらいたいと思うのだ。
昔からそうだった。兄とはよく小さな喧嘩をしていたけど、わたしが本当に嫌なことはしないし、何か悲しいことがあれば真っ先に気づいて、声をかけてくれる。
すごい人だと思っていた。
「…彼氏が浮気してた。それだけ。下らない話してる暇あったら食べようよ」
声が震えないように。か細くならないように。努めていつもと同じ声を出す。
「言いたくないなら言わなくていい。…それから、下らないなんて思ってもないこと言わなくていい」
なんだよ、兄貴風吹かせやがって。なんでもお見通しってか。馬鹿じゃないのか。馬鹿。
「…好きだったんだよ」
「うん」
「本当に好きだった」
「うん」
ああ。泣かないって、決めてたのに。
「でも、あいつは私を、好きじゃなくて」
「うん」
この「うん」しか言わないバカのせいでそんな決意はいとも容易く崩壊する。
「しかも、相手が、すごい尊敬してた先輩で」
「うん」
「ほんと、馬鹿じゃないの」
「…うん」
「好きじゃないなら、そうやって言えばいいじゃんね。別れて欲しいって言えばいいじゃん。なんにも言わないのに浮気とか、それは、なんか、むかつく。………先輩も。浮気すんなら、応援してるとか、いうなよな。馬鹿か。してねーだろ、応援なんて。…馬鹿。………ばーか!」
「…お前がいちばん馬鹿だな」
弱ったメンタルに追い打ちをかけるように兄は言う。少しむっとした。普通はこういうとき、慰めてくれるんじゃないのか。
「浮気されてても母さんのごはん食ったらとりあえず幸せになれるような男、どうせ大したことねぇんだよ」
兄は大真面目な顔でいう。
私は、ふっと静かに吹き出してしまった。
「…確かにそうかも」
「だろう。恋人っつーのは家族の愛と同等の愛を持ち合わせてこそ意味があるんだ」
「うん」
「だから、そういう相手に出会うまでの男は全部ただの経験であって、途中経過であって、100歳になって思い返してみれば、きっとどうでもよくなってる。いや、笑い話になってるかも」
「そうだね。きっとそうだよ」
兄のこういう、馬鹿みたいに明るい、一見突飛に思える理論が私は大好きだ。
「じゃあやっぱり、これは下らない話だったわね」
「そうだな、下らない話で何よりだ」
兄は笑って言いながら、私のお皿に豚のしょうが焼きを3枚乗せる。
「私、しょうが焼きも大好き」
「俺も大好きだ」
「…特別に1枚あげる」
私の発言に兄は相当驚いたのか、カッと音がしそうなくらい目を見開いた。
「明日は天変地異か」
この野郎、私をどれだけ食い意地のはった人間だと思ってるんだ。
「相談料…っていうか、一応感謝の印ってことであげようと思ったけど、要らないならいいや」
「要らないなんていつ言った」
兄が急いでしょうが焼きを1枚自分の皿に移す。
多分私は卵焼きの次くらいにしょうが焼きが好きだ。
まずしょうがのツンとした香りが鼻腔をくすぐり、なんともお腹をすかせる。
一口噛めば豚の旨みが口の中に広がる。タレとの相性は最高。しょうが、醤油、みりん、肉。まずくなる要素は見つからない組み合わせだ。材料同士が味を引き立て合う。醤油の香ばしさでごはんが進む進む。しかも、みりんでしょうがの辛さがまろやかになって味に深みも出るから、豚のしょうが焼きというメニューを考えた人は間違いなく天才。
たっぷりタレを絡ませてから、ごはんに乗っけるのもいい。肉の旨みが移ったタレがごはんに染みて、これまたとても美味しい。ご飯だけでも食べれてしまう。
ああ、兄は偉大だ。しみじみと感じる。
なんだか久しぶりに母の顔を見たくなってしまったな。父さんと、犬のエリーにも会いたい。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「来週、一回家に帰るよ」
「そうしろそうしろ。出来立てはもっとうまいからな」
「そうだよね」
どうしてか、また涙が溢れてきた。
…多分、悔しい涙でも、悲しい涙でも無いんだろうな。
そんなことを感じながら、もう1度筑前煮の里芋を口に放り込んだ。
月曜日会社に行ったら、直哉とちゃんと別れ話をしよう。今までありがとうっていうのはちゃんと伝えて、でももう浮気はしちゃダメだよって注意して。ちゃんと、終わらせよう。
…まだ、家族より好きになれる人なんて見つかりそうにもないかな。