水底の華
山にはいつの間にかその燃えるように紅かった色を失い、先々がとがった枝を必死に伸ばしている木々がぽつぽつと寂しそうに立っているだけだった。
吐く息が白く立ち昇り、限りなく白に近い灰色の空へと溶けていく。風が止まったままのこのダムの畔には、もの音ひとつしない。赤く染まっているのであろう頬を突き刺すのは、何も冬の訪れを告げる北風だけではないだろう。 静寂が、存在を圧し潰すかのような重い静寂が辺りを覆っていた。
何もできなかった。私は私は、本当に何もできなかったんだ。
波打つことも、流れていくことさえも知らない水面に写る己の姿を見ると、そんな想いが、遠い過去の出来事への悔恨が記憶という繋がりを伝って時間を越え蘇ってくる。
結局私は無力で、ただの能無しで、ちっぽけな一人の馬鹿にしか過ぎなかったんだ。
煙草を内ポケットから取り出す。あの日々から数年後に呑み始めた少々きつめの煙草だ。一本取り出し、口にくわえる。ライターを忘れていたことを思い出した。
「どうか、どうかあの木だけは。あの木は、あの桜は村の誇りなんじゃ」
「何とかねぇ、あの木だけでも残ってくれるならねぇ。ここに村があったんだって、私たちのふるさとがあったんだって。ねぇ。まあ、無理でしょうけど」
あの時、あの日々、蝉が何故かおとなしかったあの夏、私は村民たちに約束をした。絶対に大丈夫です。必ず桜は移植させてみせます。大丈夫ですから。僕たちを信じてください。
必死に桜を守ろうとしていた老人に、諦めきった笑顔を見せていた女性に、たくさんの故郷を捨てなければならない村民たちに、私は胸を張って約束したのだ。
できないことなどないと思っていた。得た知識が、養った人との付き合い方が誰かのためになると信じていたのだ。
社会のことなど何も知らなかったガキだったくせに。
風が吹き始めた。煙草は元に戻すことにした。車は少し離れた場所に停めてある。
桜はどうなったのであろう。水底に沈んだ巨木に想いをはせる。あれから三十年。権力に屈し、逃げるようにして関わることを辞めてしまった桜は死んでしまったに違いない。
しかし、例えそうだとしても、ずっとずっと、この冷たい水底で咲いていて欲しいと願うことはおこがましいことなのだろうか。
私は空を仰いだ。白い空の所々に、鈍い灰色の雲が織り混ざり始めていた。
降り始めた雪は冷たく。まるであの桜の花びらのようだった。