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5、剥がれ落ちる膿

本日二回目の更新です。

今回長めなのと、グロ注意です。ホラーっぽくなってきましたね。

怖いといいのですが。

 来なければ良かった……、と。震えながら和穂は後悔していた。目の前の光景を視界に入れたくない。その一心で、必死に身をよじろうとする。

 その場に縫い付けられたかのように自由にならない身体は、軋んだブリキ細工のように哀れだ。

 早く、と念じたところで、脳が、身体が。恐怖という媚薬を受け入れようとする。

 最後の一粒、たったひとつの思い。生存本能とも言えるそれだけが、和穂の脆弱な意識を繋ぎ止めていた。

 あるいは。早々に意識を失うことができたなら、幸せなことだったのかもしれない。

 見えてしまえば、忘れることは困難なことだとわかっていたから。



+++++++



 翌朝、深夜から降り始めた雨は、夏だというのにひんやりとした風を運んできた。和穂は朝食もそこそこに、準備を始めた。

 タンクトップに薄手のカーディガンを羽織り、デニムのミニスカートをはく。お気に入りの傘を広げ、扉を開く。


「おせーよ」


 家を出ると、幹生がそこで待っていた。Tシャツにジーンズ。紺色の傘。和穂は笑顔を作ると、ごめんと言って歩き出す。


「まだ時間余裕あるし、飲み物でも買ってこう」


 和穂の家と凛の家は近所だ。高校から一緒になった彩乃と尊とは違い、幹生を含め和穂と凛は幼馴染みだ。

 当然、学区が同じだから家も近い。


「なんだか、寒いね」


 歩きながら和穂がこぼす。季節外れのとも言える肌寒さを感じながら、二人は閑散とした住宅街を歩く。

 薄暗い空は、何もなくてもどこか不吉に感じるものだ。和穂は小さく溜息をつく。


「ほら、コンビニ着いたぞ」


 危うく通り過ぎかけた和穂に、幹生が声をかける。和穂は慌てて軒下に立つ幹生に駆け寄ると、傘を畳んだ。

 ぱらぱらと、傘についていた雨粒が零れ落ちる。傘をコンビニの壁に立て掛けると、乾いたアスファルトに広がっていく水溜りをぼんやり眺め、和穂はまた溜息をついた。

 湿り気を帯びた風が、和穂をひと撫でする。思わずぶるりと身を震わせると、和穂は幹生の後を追ってコンビニへ入った。

 いくつか飲み物を買い、手土産代わりのロールケーキもついでに買った。

 再び雨の降る往来へと傘をさして歩き出す。


「あ、見えてきた。幹生って、凛の家は初めて?」


「あぁ、そういえばそうだな」


 和穂にとっては見慣れた、幹生にとってはありふれた外観の灰色のマンション。凛の家は、このマンションの三階だ。

 和穂が慣れた様子でエントランスに入り、エレベーターのボタンを押す。程なくエレベーターが到着し、狭い内部に乗り込み「三階」のボタンを押す。一瞬の浮遊感の後、すぐに三階に着く。


「こっちだよ」


 幹生に声を掛けながら和穂が歩き出す。目的の部屋の前で立ち止まると、和穂は雨風で乱れた髪を整えながらインターホンを鳴らした。


「はーい」


 中からバタバタと足音が聞こえ、すぐに凛が顔をのぞかせた。小花柄のマキシワンピに身を包んだ凛だ。


「ひどい雨だったでしょ? 上がってよ」


 凛に案内され、リビングへ入る。既に彩乃と尊は来ていた。

 彩乃はオフショルダーのトップスに、ハイウエストのパンツだ。寒いのか、パーカーを膝にかけている。

 対する尊はチノパンにポロシャツというシンプルな格好だ。


「なんか今日は寒いよねえ」


 お土産を凛に手渡しながら、和穂が苦笑いを浮かべる。

 凛がお茶やお菓子を広げつつ、同意するように頷いた。


「ホントにね。よし、適当にやってて。兄貴に声かけてくる」


 凛が手を振りリビングから出て行くのを見届けると、和穂と幹生はテーブルの側に座った。


「今日は1日雨みたいだよ」


 お茶を飲みながら、彩乃がのんびりと呟く。1日挟んだことで、和穂たちの精神状態はかなり安定していた。

 恐怖よりも好奇心が優っている程度には。

 雑談に花を咲かせていると、リビングの扉を開いて凛と凛の兄が姿を現した。


「いらっしゃい」


 凛の兄は友樹といって、和穂たちより三個上……大学二年だ。


「お久しぶりです」


 和穂が声をかけると、友樹が笑顔で手を振る。


「和穂ちゃん久しぶり。幹生も元気そうだね」


「うっす」


 幹生が返事を返す。友樹は高校は違ったが、中学生までは和穂と幹生と同じところだった。


「さて、僕も座っていいかな」


 凛がある程度話していたのか、笑顔を引っ込めた友樹が床に座り込んだ。テーブルを囲んで円を描くかたちに座ると、和穂たちも口を噤んだ。


「……あんまり、思い出したくはないんだけどね」


 沈んだ暗い声で、友樹は話し始めた。

 友樹の友人がパワーストーンの店、ハッピーウイングでアルバイトをしていたのは、ちょうど去年の今頃だった。別の友人が彼女にブレスレットをあげたいというので、友樹も一緒にハッピーウイングへ行った時のこと。


「……学校帰りに寄ったんだけどね。男三人でああでもないこうでもないって選んで、ふとドアベルが鳴った気がして顔をあげたんだ。バイトしてた友達……あぁ、茂人っていうんだけど、やつと店長も気がついたみたいでね。いらっしゃいませって言ったんだよ」


 宙を見つめながら、友樹は淡々と話す。その表情はどこか苦痛を耐えるようでもあった。


「それで……誰もいなかったんだ。ただ、ドアがゆっくり閉まっていこうってしてて、あぁ誰か間違えて戸を開けたんだなって思って振り向こうとしたら、聴こえたんだ。茂人の、押し殺したような……いや、絞り出すっていうのかな、そんな悲鳴が」


 息を呑む音が響く。友樹は瞳を閉じ、青白い顔で首を横に降る。


「……振り向いたら、一面真っ赤だった。目の前で、茂人が泡を吹いて倒れて、もう一人の友人が悲鳴をあげて駆け出して。後のことは正直、よく覚えていないんだ……ただ、そこにいたはずの店長が……いなかった、ってことは覚えてる」


 友樹はそこまで話すと、深く息を吐いた。

 静寂が身を包む感覚に、和穂は震えた。部屋の温度が下がった気がして、思わず幹生の顔を盗み見る。


「……それ、で」


 幹生が震える声で喘ぎ声をあげる。


「その、茂人さんたちは……?」


「聞きたいの?」


 拒絶するような。傷ついたような笑顔で、友樹が尋ねる。


「できれば」


 負けじと幹生が食い下がると、諦めたような顔で友樹が頷いた。


「そうだね……僕があげた割引券のせいって話だしね。いいよ、教えてあげる。茂人は……生きてるよ」


 どこか含みのある言い方に、和穂は思わず眉根を寄せる。それに気がついたのか、友樹が微笑んだ。どこか……壊れたような笑みだ。


「入院してるよ。もう一人の友人だけど……もういない」


 もういない。その言葉に、和穂の肌が粟立つ。その言葉の裏に潜む結末に。


「……入院先は僕も知らないんだ。知っていても、多分話は聞けないだろうけどね」


 友樹の言葉に、和穂は必死に思考を働かせる。ひりつく喉は、声を出すことを忘れたかのようだ。


「ありがとうございます……嫌なこと思い出させてごめんなさい」


「いいよ。でも、関わらない方がいいんじゃないかな」


 どんよりとした瞳で呟く友樹を、誰が笑うことができるだろうか。和穂たちは何度も頷くと、疲れ切ったように立ち上がる友樹を見上げた。


「それじゃあ、僕は用事があるから」


 手を振り出ていこうとする友樹の背に、和穂が声をかける。


「ありがとうございました、本当に。あの、今度は楽しいことで会いましょうね」


 友樹の肩が一瞬震え、ゆっくりと振り返る。和穂のことを見つめる友樹の瞳は、どこか悲しそうだった。


「そう、だね。それじゃ、凛のこと頼むよ」


 友樹はそれだけ言うと、リビングから出て行った。

 和穂たちから、重い溜息が漏れる。


「どういうことなの? 兄貴も目撃者って……というか、目の前で店長が殺されたってこと……?」


 凛が動揺を隠そうともせず捲し立てる。


「それよりも気になるのは、凛のお兄さん、犯人を見てないってことだよね?」


 尊が難しい顔で唸る。友樹の言葉の中には、犯人の描写はなかった。目の前で目撃したのにもかかわらず、だ。


「ドアベルが鳴ったって、まさか……ね?」


 彩乃が青い顔で呟く。その可能性を、否定する言葉を待ち望むように。


「まさか……幽霊って言いたいの? この現代日本で……」


 凛が笑い飛ばそうとして失敗したのか、引き攣る頬を隠すように挟み込む。


「……わかんねえな。こんだけじゃさ。当時のこと、ネットとかに載ってないか?」


「あ……うん、そうだね。図書館でパソコンブースあったでしょ。借りに行こう」


 幹生の言葉に、和穂が同意する。時計を見ると、まだ昼前だった。


「丁度いいから、調べ物が終わったら昼ご飯にしようよ」


 無理矢理空気を戻そうと、和穂が立ち上がる。やがて幹生たちも立ち上がると、片付けをして凛の家を出た。

 エレベーターを使い一階に降り、エントランスを抜ける。降り続く雨に傘をさそうと持ち上げた和穂の傘が、衝撃を受けて飛んだ。

 何が起きたのかわからず、物凄い衝撃でよろめいた拍子に尻餅をつく。背後から上がる彩乃の悲鳴。


「兄貴……なんで……」


 ぽつり、と聴こえた凛の声に弾かれたように顔を上げると、潰れたトマトのようになった友樹が横たわっていた。手も足も滅茶苦茶な方向に折れ曲がり、額から流れる血が、じくじくと雨と混ざり流れていく。

 張り付いた喉が、情けない音をあげる。空気を取り込めない肺が、胸が、苦しさのあまり和穂は涙目になった。


 目を逸らしたいのにそらせない、恐怖に縫い付けられた身体に。去来する後悔の念を拭い去れずに、和穂は震えながらじっと、冷たいアスファルトに横たわる友樹の瞳を見つめていた。

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