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2、日常と非日常の狭間

本日二回目の更新です。

 カラオケの個室は、時間の感覚が狂いがちだ。

 薄暗い室内は外とを完全に遮断し、廊下からの視線を遮る曇りガラスもまた同じだ。


「あれ、おかしいなあ」


 銘々好きな楽曲を歌い、小休止していた時だ。凛が自分のスマートフォンの画面を見つめ、しきりに首を捻っている。


「どうしたの?」


 和穂が声を掛けると、凛がスマートフォンの画面を和穂の鼻先に突きつける。


「なんか圏外なんだよね」


「え、ほんとだ。あ、でも私もだけど」


 和穂が自分のスマートフォンを確認すると、同じように圏外だった。


「そういうこともあるんじゃないの」


「んー、そうかなあ」


 納得しきれていない様子で凛が頷く。


「アヤ、そろそろ帰らないと。もうすぐ母さん帰ってくるよ」


「え、もうそんな時間? ミッキー達は?」


 彩乃が慌てて帰り支度を始める。


「俺はまだ平気かな」


「私もだけど、そろそろお腹すいたしどっか違うところ行こうか」


「賛成!」


 凛が笑顔で手を挙げる。慌ただしく帰り支度を終え、部屋を一歩出る。


「……?」


 和穂は違和感を感じた。それはとても些細なものだったが、看過できないものだ。


「なんか……静か、だね?」


 和穂の友人達も同じであった。

 耳が痛くなるような静寂。本来であれば、有線から流れるBGMや、他のルームで歌う客の声が漏れ聴こえるはずだ。

 それが今は、不気味なほどの静寂に包まれている。


「……ねえ、なんか気味が悪いよ。早く帰ろう」


 彩乃が尊の服の裾を掴む。


「そうだね、行こうか」


 不気味なほど静まり返った廊下を歩く、和穂達の足音だけが響く。どのルームの扉も閉じられていた。

 後は角を曲がり、階段を降りるだけ。そんな時だ。一部屋だけ、扉が開いている部屋があった。


「どこも満室なのに、変なの」


 凛がそっけなく呟く。開いている扉があれば、自然と視線はその中に引き込まれる。


「ひっ……」


 漏らした声は、誰のものだっただろうか。

 赤黒い染みが、まるで今ぶちまけられたかのようにゆっくりと廊下へ染み出してくる。

 薄暗い室内に、やけに鮮やかな赤が……壁一面に、まるでアートのように撒き散らされていた。

 鼻をつく臭いは、鉄錆のような重く淀んだものだ。誰ともなく、理解してしまう。否定したくともそれを頭が拒否するように。


「ぅえっ……」


 彩乃が蹲り、胃の中のものを吐き出す。尊は彩乃を庇うように抱き締めるが、その顔色は青白い。

 一番間近で見てしまった和穂と幹生は、その場に縫い付けられたかのように動けずにいた。


「……だ」


 凛が、震える声で絞り出すように呟く。


「紅の魔術師……だ……」


 そんなまさか。頭に浮かぶ色々な言葉を追いやりながら、和穂は一歩後ずさる。


「い、行こう……ほら、凛も」


 尊が青白い顔のまま、彩乃を無理矢理立たせる。何かをブツブツと呟き続けていた凛にも声を掛けると、凛の肩がびくりと跳ねた。


「いや……嫌ぁぁ!」


 廊下に響く声を上げ、凛は恐怖に引き攣った顔で駆け出した。


「凛!」


 和穂も一拍遅れて足を踏み出す。恐怖に後押しされるように、幹生や尊、彩乃も駆け出した。

 凛が消えた通路の角を曲がり、階段を駆け下りる。

 踊り場を抜けて受付まで戻ってくると、地面にうずくまりながら泣きじゃくる凛と、それを遠巻きに眺める他の利用者の姿が目に飛び込んできた。


「えっ……」


 拍子抜けしたような声が、和穂の口から漏れる。つい今まで見ていた凄惨な光景は、嘘だったのではないか。一瞬そんな考えが脳裏によぎる。

 現実離れした光景と、現実でしかない目の前。その乖離に、脳みそがまともに動くことを拒否しているようだった。


「あの、お客様……大丈夫ですか?」


「あっ……あの」


 和穂は店員に声を掛けられ、霞がかかったような思考にどう反応すべきか言い淀む。

 それは他のメンバーもそうなのか、暗い表情で俯いたままだった。


「いえ、その……なんでもない、です」


「そうそう、ちょっと怪談してたら怖がっちゃって……」


 和穂の気持ちを汲んでか、幹生も同意する。

 アレがもしも人間の一部だとしても……自分たちには関係ないとでも言いたげに。


「そうですか……?」


 困惑した様子の店員を押し切るように、和穂達は精算を済ませた。

 いまだ泣きじゃくる凛をなだめ、逃げるようにカラオケボックスを後にする。

 本来なら店員に報告して、警察に通報するべきだろう。だが和穂は、とてもじゃないがあの光景をもう一度思い出すことなんてできなかった。


「何も見なかったことにして、忘れよう」


 そんな言葉が誰ともなく出てきたのは、当然のことだった。

 得体の知れない殺人鬼。いやが応にも結び付けてしまいそうになる光景。


「それじゃあ、また明日」


 暗い雰囲気を払拭するように、お互い無理矢理笑顔を作る。

 手を振る互いの顔に陰りがあることを、見て見ぬ振りをして。



+++++++



 ひたり。

 何かの足音が、ずっと着いてきていた。夏だというのに、身震いするような寒さだ。


「……!」


 来ないで、と言いたいはずなのに、声が出ない。

 身体はまるで鉛のように重く、足はもつれたように上手く動かない。

 真っ暗闇。いや、部屋の電気を消したとしても、もう少しは明るいはずだ。

 絡みつくような……粘度の高い闇。昏く重く、それは「死」の気配を纏っていた。


 ひたり。ひたり。


 足音が次第に近づいてくる。追いつかれれば、どうなってしまうのか。想像するのも恐ろしい。

 闇が孕む臭気に、胃がむかつく。かつて、その臭いを嗅いだ気がして……彼女は記憶の糸をたぐろうともがく。

 絡み合う糸を必死にたぐる間にも、背後の足音は少しずつ近づいてくる。


 肺に必死に空気を送り込み、ついに何かの……恐ろしく冷たい何かの手が肩に添えられた時、彼女は恐怖から口を大きく開けーー……。



++++++



「……っきゃあああああ!!!」


「うわっ、ビックリした」


 心臓が破裂しそうなほど暴れ回っている。和穂は何が起こったのかわからず、胸に手を当てながらぐるりと辺りを見回した。


「姉ちゃん、ごめんって」


 目の前にはアイスを片手に困った顔をしている弟……悟が立っていた。


「え、あれ……?」


 夢だったのかと胸をなで下ろす。あまりにも濃厚で、現実感を伴う夢だった気がして、和穂は身震いする。


「少し、クーラーききすぎじゃない?」


「そう? 俺ちょうどいいよ」


「私は寒いのっ」


 和穂の不機嫌そうな声に、悟は渋々といった様子でクーラーの設定をなおしていた。

 帰宅後、リビングのソファでぼんやりとしているうちに眠ってしまったらしい。セーラーのスカートには皺がよってしまっていた。


「はあ……」


 盛大な溜息を和穂がつく横で、悟がテレビのリモコンを操作する。


「へー。駅前にカラオケなんてできたんだ。姉ちゃん知ってる?」


「え、う、うん」


 落ち着きかけていた心臓が、きゅっと握られた気がする。


「……殺人事件だって」


 悟の言葉に、忘れようとしていた記憶が津波のように押し寄せていった。

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