13、深淵を覗く者
これにて完結です。お付き合いありがとうございました!
あれから、二週間が経った。紅の魔術師と思われる少年が、被疑者死亡のまま書類送検された、というニュースはそれなりに世間を騒がせた。だが、それもすぐに忘れ去られる。
紅の魔術師なんて、初めから存在しなかったかのように。
幹生が死んだことで、少なくとも和穂や和穂の周りの人間にとっては風化することのない傷として残り続ける。
それに向き合えるだけの強さがある人間は、そう多くはないが。
「……じゃあ、おばさん。凛によろしく伝えてください」
携帯の通話を切った和穂は、溜息を零した。
既に学校は夏休みに突入していたが、あれ以来凛とは会えていない。
自分のせいで幹生が死んだと、凛はひどく自分を責めていた。幼馴染みを亡くし、兄を亡くし、凛は一人部屋に篭って出てこないのだという。
「凛……」
幼い頃から一緒にいた親友の力になれないことに、憤りを覚えないわけではない。だが、和穂に会えば嫌でも思い出してしまうのだろう。自分を突き飛ばして、虫に食い殺された幹生の断末魔を。
それが想像できるだけに、和穂は電話で凛の母親に連絡を取るに留めていた。
「ごめんね……」
涙は出ない。出ないのだ。
あの日、関谷と幹生の心臓を鷲掴みにされるような悲鳴を聴いた時から。和穂の心は、麻痺してしまったかのように無感動になっていた。
喜怒哀楽だけではなく、恐怖や興味なんていう情緒が、極端に希薄になっている。
時間が経てば戻るかと思ったが、一向にその気配はなかった。
「……っと、時間か」
和穂は携帯をポケットに突っ込むと、財布だけ持って家を出た。
夏の日差しが容赦なく肌を焼いて、和穂は溜息を吐いた。
駅まで来た和穂は、新幹線の入場券を購入し、改札を通る。ポケットから携帯を取り出すと、尊の番号を呼び出した。
ホームへ続く階段を登りながら、呼び出し音をBGMにしていると、携帯の向こうから返事があった。
「あ、尊? うん、私。どこにいるの? うん、わかった」
階段を登り切り、携帯をポケットに戻す。人でごった返すホームを歩きながら、和穂は尊の姿を探した。
「和穂!」
.「あ、いたいた」
尊の声に、和穂はホームの端へと走る。そこには大きな旅行鞄を脇に置いて、尊と彩乃が立っていた。
新幹線に乗り込む人、見送る人の波を避けつつ、なんとか二人の元へと辿り着いた。
「なんか久しぶりだね」
彩乃が明るい声で言う。和穂は頷きながら、時計を確認した。
「もうすぐだね」
「うん」
彩乃が寂しそうに笑う。
「なんか……お父さんが急に転勤とか言うから……。でも、遊びに来てね!」
彩乃がとびきりの笑顔で和穂に言う。和穂は、隣で尊が悲しそうに目を細めるのに気が付いた。
「うん、メールもするね」
和穂は頷くが、もう会わないほうがいいのだろうと思った。
彩乃には、紅の魔術師との最後の日の記憶がない。抱えきれない恐怖があふれ、彩乃は記憶に蓋をした。
幹生が死んだことも知っているはずなのに、何度も教えたが覚えられないのだ。
枝蛇市にいては、心の治療は難しいとの両親の判断で、東京に引っ越す。
「凛とミッキーも誘っておいでよ!」
忘れてしまった彩乃は、無邪気にはしゃいでいる。和穂はその実現することのない願いに、それでも頷くことしかできなかった。
「アヤ、俺たちも来年は受験生だからさ。難しいかも」
「あー、そうだよねえ。アヤ、永久就職したーい」
彩乃がうんざりしたように呟く。和穂は口元を綻ばせると、彩乃を抱きしめた。
発車の時間が迫る。ホームに響くベルの音を聴きながら、和穂は彩乃の頭を撫でた。
「またね、彩乃」
「うん、カズも。またね」
果たされることのない約束を交わし、和穂は身を離した。
新幹線に乗り込んでいく二人を見送りながら、和穂は手を振った。
「バイバイ」
ドアが閉まり、走り出していく新幹線へ。和穂の別れの言葉が届くことはなかった。
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一人ぼっちになってしまった、と和穂は思う。凛にはいつ会えるかもわからず、彩乃と尊にはもう二度と会うべきではない。
幹生は死に、関谷も死に。憧れだった友樹ももういない。
繁華街の裏路地に身を滑り込ませた和穂は、汚い雑居ビルの一つの、錆びついた階段を登った。
カンカンと足音が響き、登った先には磨りガラスを嵌め込んだ簡素なドアが見えた。
印刷の掠れた表札には、「多部探偵事務所」と書いてある。
和穂はドアを無造作に開くと、手にしていた財布を思いっきり室内に投げ込んだ。
「いたっ」
情けない声が聴こえ、ソファで寝転がっていた多部がのそりと身を起こした。
「あぁ、和穂ちゃん。やっぱり来たね」
くたびれたワイシャツの襟を直しつつ、多部がにんまりと笑った。
「暇だったから」
無遠慮に空いているソファに座り、近くのコンビニで購入した炭酸飲料の蓋を開ける。爽やかな音が響き、和穂はそれを一口飲んだ。
「あれ? 僕の分は?」
「ないですよ、自分で買ってください」
和穂の言葉に悲しそうな顔をした多部は、何かをぶつぶつと言いながらテレビをつけた。
「はぁ……助手が冷たい」
「まだなってませんけど」
ぴしゃりと和穂が言い捨てる。多部はそれに答えず、テレビを凝視する。
「……以上の点が、数週間前解決したと思われる紅の魔術師と酷似しており、警察は捜査を続けている模様です」
テレビから聴こえた単語に、和穂も顔を上げる。既にニュースは天気予報に切り替わっている。
「……で、どうするの?」
多部の微笑みに、和穂は嫌そうに顔を歪める。
まだ、終わっていない。
「……いいですよ、助手。でも、死ぬのは嫌」
正直に告げると、多部は満足そうに笑った。
「うん、やっぱり僕の思った通りだ」
多部の手のひらの上で踊らされていると思うと腹立たしいが、和穂はあえて何も言わない。
敵討ちとか、正義感とか。そういう問題ではない。
せめて普通に暮らせるように、自分の不安を取り除きたい。そんな心境が一番近い。
これも、恐怖心が薄れているせいなのかもしれない。
「じゃあ、これからよろしくね。和穂ちゃん」
「よろしくお願いします」
いつ終わるとも知れない、異形のものとの戦いに足を踏み入れることを選んだ和穂。
それは、世界の裏側でひっそりと起こる事件の、ほんの片鱗にしか過ぎない。
あの事件がそうかもしれないし、実はこの怪談がそうかもしれない。
それが人ならざる何かの仕業だったとして、当事者以外の誰が気がつけるだろうか。
だが、気をつけなくてはいけない。
かのフリードリヒ・ニーチェはこう言った。
深淵を覗こうとするとき、深淵もまたこちらを覗いているのだから。




