12、蝉時雨
今回長いです。次回で最後。
イチヘビ坂は、山が近く、繁華街から遠く離れている関係からそれほど栄えている地区ではなかった。
耳を澄ませるでもなく、生を主張する蝉の声がどこからか。雨の様に打ちつけてくる。
そんなイチヘビ坂にある廃ビルから、数百メートル離れたコンビニの前に和穂と幹生、凛はいた。
「ねえ、幹生。廃ビルってこれから暗くなるから、懐中電灯持ってきたんだけど」
「俺も持ってきたよ。凛は?」
「容易いいね。私は持ってきてないや」
凛が苦笑いを浮かべる。幹生は背負っていたリュックから懐中電灯を取り出すと、凛に差し出した。
「一応、連続殺人犯かもしれない奴がいるんだろ。俺は両手あけときたいし、使えよ。まぁ……多部さんが言うように魔術? が本当にあるなら、俺が取り押さえられるのかわかんねえけど」
「ありがと」
凛は幹生から懐中電灯を受け取った。
程なくして、他の面々もコンビニの側に姿を現した。
「やあ、来たね」
多部が片手を上げ、和穂たちに挨拶をする。
多部と関谷は、見慣れない男を一人連れていた。
「彼は田中君といって、私の同僚なんだ。今回はバックアップに回ってもらう。もしも彼女たちが危ないようなら、頼むよ」
田中という男は、緊張感を滲ませた顔で頷いた。
「さて、そろそろ約束の時間だけど、準備はいいかな?」
「……本当に、引き返すなら今だよ」
多部と関谷が、確かめるように言う。和穂たちが神妙に頷くのを見て、諦めたように関谷は首を振った。
「じゃあ、注意をしておこう。何を見ても、パニックを起こさない。勝手な行動はしない。死にたくないんならね」
「魔術のせいですか?」
「それもあるけどねえ。まぁ、こればっかりは会ってみないことには、ね」
遠くを見つめながら語る多部の過去に、どれほどの不可思議な事件があったのだろう。その表情は捉えどころがないが、どこか諦めのような、悲しみのようなものが滲んでいた。
「君たちは関谷と僕の間にいたらいいだろう。固まってね」
「わかりました」
和穂が頷くのを見ると、多部は微笑んで歩き出した。
人気のない住宅街を数百メートル歩くと、それまで煩かった虫の声が止んだ。夕刻だからだろうか。それとも山が近いからか、和穂は妙な肌寒さを覚えた。
目の前に現れた廃ビルは、二階建ての小さなビルだった。かつては飲食店でもしていたのか、見える範囲にはテーブルや椅子が散乱している。
「いないようだね」
一階には、と言うと、多部は無遠慮に足を踏み出した。
割られたガラスを踏みしめる音が、やけに大きく響く。
全員が中に入ったのを確認すると、多部は関谷に視線を向けた。
「じゃあ、田中君。入り口の確保はよろしく。危なそうな場合、彼女たちの退路を作って欲しい」
田中は頷くと、入り口に留まった。
そこまで警戒しなければならないことが、目の前で起きているという事実。和穂は身震いすると、震える手で懐中電灯を点けた。薄暗い廃ビルを照らす光は、とても頼りないものだった。
「さて……もういるんだろ?」
多部の声が、低く響く。多部の視線は、奥の階段に注がれていた。
パキッと乾いた音が響く。それは間違いなく、奥の階段の方から聴こえた。
「悪いけど、姿を見せてくれないかな」
多部の言葉に、不可解なことが起きた。目の前に、突如として人間が現れたのだ。
赤いフード付きのパーカーを着た、どう見ても高校生くらいの少年が立っていた。
「君が……あのホームページを作ったのかな?」
周囲が固唾を飲んで見守る中、多部だけがいつも通りだった。
まるで世間話をしているように、気さくに少年に話しかける。
少年に不審な点は見受けられない。あるとすれば、急に目の前に現れたことくらいだ。
「驚ろいたな。おじさん、わかってるの?」
少年が無感動に呟く。
「肯定ってことでいいかな。じゃあ、もうひとつ。君が紅の魔術師、かな」
「……そうだね」
少年が悠然と頷く。関谷が息を呑む音が、はっきりと聞こえた。
「だそうだよ。君たち、質問は?」
「え……?」
和穂が驚いて声を上げる。
「……ねえ。ホームページに名前を書かれた人を、あんたが殺してるの?」
凛だ。凛が懐中電灯で少年を照らしながら、静かに尋ねる。
少年は頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「そう。いいでしょう? 望んでる人がいるんだから」
「なんのためにそんなこと……」
彩乃が恐々と口にする。少年は不思議そうに彩乃を見つめ、微笑んだ。
「好きなんだ」
「え?」
「血が好きなんだよ。集めてる。もう少しでいっぱいになるんだ」
少年の言葉に、多部が顔をしかめる。
彩乃は少年の答えに、顔を蒼白にして俯いた。
「そんな……」
「アヤ、聴きたくないなら外に……」
尊が彩乃の腕を引く。
瞬間、少年から楽しげな笑いが起こった。
「逃がさないよ……どっちにしても、今日で終わりそうだから」
「関谷!」
多部の声が響く。だが、一瞬遅かった。
暗がりから飛び出した無数の「何か」に、関谷が飲み込まれたところだった。
「くそっ……入り口に戻れ!」
関谷の悲鳴とも絶叫ともとれる声が、ビルの中に響く。
少年はだらしなくよだれを垂らしながら、笑っている。
「逃がさないよ! 逃げられると思ってるの?」
蝉時雨が……遠くから聞こえた気がした。次の瞬間、それは違うのだと理解する。
無数の虫が、少年の背後の階段から降りてくる音だ。
「多部さん! 囲まれてる!」
彩乃が叫ぶように告げる。多部はゆっくりと辺りを見回し、少年を見る。
既に関谷の声は止んでいた。
「もう……いやぁ……」
凛はその場にうずくまり、震えながら泣いている。
彩乃は倒れてこそいないが、今にも気絶しそうなほど青い顔をしていた。
まともに動けそうなのは、和穂と幹生、それに尊だけだった。
「君たち、これを」
多部が背負っていたリュックから、数本の瓶とライターを取り出した。口には布が詰められている。
「これ……」
「火をつけて投げるんだ。背後は任せて」
「尊、彩乃を。凛、ほら立てよ!」
幹生が声を上げ、凛を無理やり立たせる。和穂は瓶を脇に抱え、一本に火をつけた。
燃え上がる布を触らないように気をつけ、入り口側の虫に投げる。燃え上がる虫から、吐き気をもよおすおぞましい臭いが立ち上った。
「走るよ!」
「逃がさないって言ってるだろ!」
少年が声を上げると、虫たちが火を避けるように動いた。
「くそ……凛、行け!」
凛を引っ張っていた幹生が、凛を炎の向こう側へと突き飛ばす。数歩たたらを踏んで、入り口で外から様子を伺っていた田中に抱き起こされた凛は、黒い塊に幹生が飲み込まれるのを見た。
「……ぁ……や」
凛の口から、乾いた声が漏れる。
ほんの数メートル先で、虫にたかられた幹生の身体から、何かを引きちぎる音が響いた。
それと共に、幹生のおぞましい絶叫が。
「ミッキー……いやあ……」
泣きじゃくる彩乃の身体を支えながら、尊が走り出す。火の上は熱いが、難なく田中のそばへと戻れた。
「幹生……馬鹿……」
和穂は瓶を握り直し、何度か虫に投げつける。これで入り口の方へ虫が到達することはないと悟り、和穂は安堵の吐息を吐いた。
「四人か……まぁ、充分かな」
少年の声に、和穂は顔を上げた。
退路は炎で断たれ、関谷と幹生は既にいない。
多部を見上げると、彼は小さく肩をすくめた。
「君も逃げたらよかったのに」
「無理です。誰かが囮にならないと無理でした。わかってたんでしょう?」
和穂は心が冷静になっていくのを感じた。四面楚歌だったが、結末を理解できる分、覚悟が決まったとも言える。
「……そう、本当に賢いね。君は」
「多部さんは酷い人ですね」
「そうだね、ごめんね」
悪びれる様子もない多部に、最早怒りは浮かばなかった。
「お別れは済んだ?」
少年が余裕の笑みで首をかしげる。多部は笑顔を返すと、頷いた。
「あぁ、そうだねえ。僕の方も準備ができたから」
多部は言うと、右手を少年に差し出した。
「和穂ちゃん、中々に楽しかったよ。ぜひ、うちの事務所で雇いたいくらいだ」
「考えておきます」
和穂は残りの瓶に火をつけると、少年や虫の塊に無造作に投げていった。これでもう、本当に策は無くなった。
「そんなもので……」
和穂たちを包囲していた虫たちが、少年を守るようにひと塊りになる。それは不気味に黒光りする一枚の壁のようで、だがその隙は多部にとって望むものであったようだ。
「……潰れろ」
短い言葉の後、壁の向こうでくぐもった声が聞こえた。それまで生きていた虫たちが、パラパラと崩れ落ち死んでいく。
グロテスクな裏側を見せつけながら死んでいく様は、背筋を凍らせるのに充分だろう。
「……気持ち悪い」
「まぁそう言わないで。終わったよ」
壁が全て崩れると、胸をかきむしったまま死んでいる少年の姿が見えた。
その表情は、驚愕の色を宿す。
「どうして……って、多部さんも魔術が?」
「そういうことだよ。言ったでしょ、僕はこういうの専門だって」
「あぁ……」
和穂は頷き、入り口に視線を向ける。既に数台のパトカーが到着していた。
「終わったんでしょうか……」
「さぁ、どうかな」
多部は曖昧な笑みを浮かべると、少年の亡骸を一瞥した。
「さて、あっちの火はおさまってきたようだ。行こうか」
「あ、はい……」
歩き出した多部の背を追いながら、和穂は幹生が倒れているであろう辺りを見た。
赤黒い染みが、コンクリートの床に広がっている。
「ごめんね、幹生……」
和穂は呟くと、未練を断ち切るように歩き出した。
涙を流さないことを薄情だとそしられたとしても。和穂はとてもじゃないが、ここで泣き崩れることはできなかった。
「多部さん、関谷さんは……」
外で和穂たちを出迎えた田中が、言いにくそうに尋ねる。
「残念だけど、死んだ。それと、君の上に報告しておいて。シャンかもしれないって」
「シャン……ですか?」
「それでわかるはずだから」
気だるげに言う多部に、田中はそれ以上何も聞くことはなかった。
こうして、長いようで短かった事件は終わった。傷つき、亡くしたものも多かったが。
暮れていく空を見上げながら、雨のようにうちつける蝉時雨を、和穂は遠くに聞いていた。




