1、噂話
蒸し暑い午後の講義。壊れたクーラーは、すし詰めの教室を冷やすわけもなく。
菅原和穂は、ノートで自らを扇ぎながら時間が過ぎるのを待っていた。
うだるような暑さだった。
教鞭をとる教師の声にも覇気がなく、授業を聞く気のない生徒を注意するのも忘れているようだ。
コツン。
机に投げ入れられたのは、消しゴムにくくりつけられたノートの切れ端だ。
和穂は斜め後ろの席をそっと伺うと、小さく溜息を零した。
シャープペンを握り、ニヤニヤと笑っているのは幼馴染みの佐藤幹生だ。クラスメートには、ミッキーと呼ばれている。
「何よ、もう」
高校2年にもなるというのに、幹生は子供っぽさが抜けない。こういうくだらない遊びが好きなのだ。
用事があるなら、携帯にメールでもよこせばいいのに。そんな悪態をつきつつ、和穂は消しゴムに括られたノートの切れ端を開いていく。
「紅の魔術師って知ってる?」
小声で文字を読み上げる。和穂は顔を上げると、呆れ顔で幹生に視線を送った。
やはりというか、悪い意味で期待を裏切らない男だ。
内容のくだらなさもさることながら、これを知っていたらどうだというのか。
紅の魔術師。最近巷を騒がせている、連続猟奇殺人犯の名だ。
本名も性別も、あらゆる事が謎に包まれている。
よくある犯罪者。和穂の日常にとって、関係のない話だ。
メールで小言の一つでも言ってやろうかと思っていると、どこか調子のずれたチャイムの音が鳴り響く。
和穂は相変わらずニヤニヤとしている幹生から視線を外すと、学級委員の号令とともに立ち上がった。
ショートホームルームを終えれば、あとは帰宅できる。
和穂は紅の魔術師のことを記憶の隅に追いやりつつ、帰り支度を始めた。
不快指数100%の教室から脱出すると、幾分気分はマシになった。
セーラーのお腹周りのベタつきが気にならないわけではなかったが、友人とカラオケでも行けばいい。
「カズ〜。いこー」
「その呼び方やめてってば。男みたいじゃん」
声を掛けてきたのは佐沼凛。中学からの同級生で、高校ではクラスが別だが和穂とは親友だった。
「いいじゃん、今さらさ〜。それよりさ、駅前に新しいカラオケできたって。兄貴がクーポンくれた」
「へー。行ってみる?」
「アヤも呼ぼう」
和穂たちが住んでいるのは、南東に海を臨む「枝蛇市」だった。枝葉のように伸びた九本の川を、昔の人が蛇として神聖視していたからだとか、そんな話が伝わっている。
和穂達のような若者にとっては、どうでもいい話だったのだが。
「アヤも行くってさ」
携帯をいじっていた凛は、満足げに笑っている。暫く昇降口で風に当たりつつ待っていると、工藤彩乃と共に幹生がやってきた。
「ねえ、ミッキーも行くって」
「は? お前女子の中に混ざんの」
凛が呆れたように言い放つ。幹生は気にした様子もなく、頷いた。
「後でタケルも来るってさ」
工藤尊。アヤの双子の兄で、活動的なアヤとは対照的な落ち着いた性格をしていた。
「じゃ、先に行こ」
誰ともなくそう言うと、眩しい日差しの中へと足を踏み出す。
半袖の先、剥き出しの肌が焼けていくようだった。
和穂達はなるべく日陰を通りつつ、校門を出て駅前の繁華街の方へと向かった。
日傘をさす人や、汗を拭きながら歩くサラリーマン。色々な人間とすれ違う。
十五分ほど歩くと、目的のカラオケ店に辿り着いた。
受付の男性スタッフが笑顔で出迎え、すんなりと部屋へと通される。
「あー、暑かったぁ」
銘々ドリンクを頼み、まずはほっと一息つく。
肌寒くすら感じる部屋は、薄暗い。落ち着いた内装に、ビニール張りの長椅子。
特に他のカラオケ店との違いは見いだせないが、新規店舗というだけの事はあり、置かれているテーブルも長椅子もまだ綺麗だった。
「そういえば、知ってる?」
凛の人懐っこい笑顔が、和穂の眼前に迫る。とびきりの内緒話をするような、そんな雰囲気で。
「何が?」
携帯を覗き込んでいた手を休め、凛の瞳を覗き込む。凛は満足そうに頷くと、勿体つけるようにアイスレモンティーに口をつける。
そんな凛の様子に若干苛つきつつも、和穂は凛の次の言葉を待った。
「この建物が、前何をやってたかさ。カズは知ってる?」
「え?」
予想していなかった言葉に、和穂は思わず眉根を寄せる。
駅前の繁華街は、和穂たちもよく遊びに来る。繁華街にあるのに、ここはしばらく空き地だった。
和穂は記憶の糸を手繰り寄せると、凛の顔をじっと見つめた。
「空き地だったじゃん」
行き着いた答えが面白みのないものだったから、和穂は苛立ちを隠す事ができない。
「違うって、その前だよ」
凛は和穂の剣呑な空気を気にした様子もなく、笑顔のままだ。
「アヤ、知ってるよ」
唐突に会話に入ってきたのは、彩乃だった。
「アヤ」
「ハッピーウイングっていう、パワーストーンのお店だったんだよ」
「あぁ、アヤそういうの好きだもんね」
いよいよ興味をなくし、和穂が溜息をつく。
幹生といい、何故そんなに噂話が好きなのか。
「遅くなってごめん」
「あ、タケルー」
和穂を救い出したのは、遅れてやってきた工藤尊だった。
「タケルちゃん、遅かったね」
彩乃がドリンクメニューを差し出しながら、首を傾げる。尊は汗を拭いつつメニューを受け取り、優しげな笑顔を浮かべた。
「タケルは学校祭の実行委員だからなー」
「いや、お前もだろ」
幹生の言葉に、尊は大袈裟に肩をすくめる。
「サボりはマズいんじゃね?」
凛も幹生を見て眉を寄せる。
「ゴリ松怒るよー?」
彩乃が困ったように笑う。ゴリ松というのは、学年主任をやっている体育の教師だ。植松という名前なのだが、見た目がゴリラのようだからついたあだ名だ。
「ま、なんとかなるだろ」
幹生は友人たちの心配をよそに、涼しい顔でメロンソーダを啜っている。
「ねえ、そんなことよりさあ。さっきの話の続きなんだけどね」
「何の話?」
会話に入っていなかった幹生と尊が、不思議そうな顔をしている。和穂だけがうんざりしたような不機嫌な顔で、凛のことを見つめる。
「ほら、元々ここに建ってた店。急に閉店したじゃない?」
「あぁ、なんかあれだろ。事件があったとか」
凛の言葉に、尊が口を挟む。凛はそれを満足そうに眺めると、微笑んだ。
「それがさ、紅の魔術師の事件があったらしいよ」
「はぁ? ニュースとかになってなかったじゃん」
和穂が思わず声を上げる。
紅の魔術師は猟奇殺人犯だ。犯行現場に一切自分の痕跡を残さず、まるで魔法のように消えてしまうことからそう呼ばれている。
被害者は全員、ミンチより酷い……人間でスムージーでも作ったのかという状態になっているらしい。
「そうなんだけどね〜。兄貴の友達がさ、見ちゃったらしいんだよ」
「な、なにを……?」
彩乃が震えながら凛に尋ねる。
「……死体」
重たい沈黙。さっきまで心地よかったクーラーが、身体から熱を奪っていく感覚。
「……わっ!」
凛が笑顔で声を上げると、彩乃が喉の奥で悲鳴を上げた。
「なんだよ、ただの怪談か?」
幹生がつまらなそうに呟く。
「へへ、事件があったのは本当らしいよ? ま、あたしも詳しくは知らないけど」
「じ、事件は本当なの……? 怖いね……今まで、繁華街に紅の魔術師が出たことってなかったよね?」
助けを求めるように尊の顔を覗き込みながら、彩乃は涙を瞳にためている。
和穂はそんな光景を眺めながら、この手の話は彩乃の苦手分野だったのを思い出す。
「まあ、私たちには関係ない話だしね」
自分たちがそんな殺人鬼に出会う確率とは、一体どれほどのものだろうかと和穂は考える。
車に轢かれるよりも低いかもしれない確率に怯えるなんて、ナンセンスだと和穂は思う。
「そ、そうだよね。もー、凛も怖がらせないでよー」
彩乃が安堵の吐息を零しつつ、凛に笑いかける。
「ごめんごめん。じゃ、適度に涼しくなったし歌おっか」
仕切り直しと言わんばかりに、凛が明るく声を掛ける。
そんな光景を眺めながら。馬鹿らしいと思いつつも、一日に二度も耳にした「紅の魔術師」という言葉に、和穂はどこか薄気味の悪いものを感じていたのだった。




