Episode 2 〈人身仲介者〉2
海を臨む瀟洒な屋敷のバルコニーに、ブラム・セイフィードが佇む。
「紅茶をお持ちしました、マイオーナー」
使い魔のエリーサが、ティーセットを載せた配膳台を押してきた。セイフィードは「ありがとう」と告げ、紅茶のカップを受け取る。
中身の紅茶はぐつぐつと、恐ろしいくらい煮え立っていた。
「……エリーサ、次からは自分で淹れることにするよ」
「承知しました」
機械のような無表情で、機械的に言う。外見は人間とそっくりであるが、彼女が人ならざる者だということを、再認識させる受け答えだ。
そして、こんなことを思う自分が、間違いなく人間だということも。
「お前から見て、人間という生物はどう映る?」
眼前に広がった海を眺めて、脈絡もなしに訊く。
エリーサはわずかな困惑もせずに、正直な意見を述べた。
「私たちにとって、人間とは契約を交わすだけの存在です。それ以上でも、それ以下でもありません。しかしそれゆえに、契約は絶対のものです。契約者となった人間には最大の敬意と誠意を払い、命か契約の続く限り、仕え続けます」
「ならば、契約者以外は?」
「気に留める必要のない無価値な存在です。見下してはいませんが」
「いや、人間とお前たちは対等ではないさ。第一に視点が違う」
「……どういう意味でしょうか?」
「お前たちは人間より上位の存在、ひとつ上の世界の住人――絶対的な高みにいるからこそ、人間を見下す必要もない。だが、下にいる者はそうはいかない」
セイフィードは切なく微笑み、カップを揺らした。
「あらゆる面で秀でた異界の存在を羨み、嫉妬する。表向きは従えることで、劣等感を紛らわす。同列になろうと、足掻きを繰り返し、叶わぬ夢と知る」
カップを持つ手を振るう。煮えた紅茶が宙を舞い、エリーサの顔面にかかった。エリーサは瞬きすらしない。熱がりもせず、坦々と主人の言葉に耳を傾ける。
「人間は生来惨めな生き物だよ――今はな」
叶わぬ夢が叶う日は、そう遠くないかもしれない。
セイフィードは紅茶を飲み干し、懐から懐中時計を取り出した。
「シスターとの約束がある。そろそろ出るとしよう」
「お送りいたします」
「いや、構わない。歩くよ。〈あちら側〉に戻っていてくれ」
「承知しました、マイオーナー。また御用があれば」
壁に魔法陣が現れ、エリーサはその中へ消えていく。
セイフィードは外出の支度を済ませ、早めに屋敷を出た。
途中で何度か、通りがかりの町民が足を止め、声をかけてきた。孤児院の火災から四日。旅の若者と海辺に住む富豪の活躍は、町中に広まったようだ。
結局、修道院に着いたのは、約束した刻限ぎりぎりだった。
先日の若い修道女が院の門前で待っていた。
「お待ちしておりました、ミスター・セイフィード」
「申し訳ない。遅れてしまった」
「いいえ。どうぞ中へ」
修道女に先導され、修道院に足を踏み入れる。奥の談話室への道すがら、礼拝のための広間から、孤児たちのたどたどしい歌声が届いた。
孤児院を管理していたのは修道院。住む家を失ってしまったため、ここが孤児たちを一時的に預かったことは、セイフィードも聞き及んでいる。
「孤児院の建て直し予定はあるのかな?」
問いかけると、修道女は暗い顔でかぶりを振った。
「町のお偉いさん方がなかなか。景気もよろしくないので……」
「そういうことなら、私が口添えをしておこう。多少の寄付をすれば、すぐにでも話が持ち上がるはずだ。市長とは長い付き合いだからね」
「い、いえ、私はそのようなつもりは! ただでさえ、養子先のご紹介をしていただいているのに、これ以上のご厚意に甘えるわけにはいきません」
「遠慮をする必要はない。……私もかつては孤児だった。養親に恵まれた幸福をわずかばかり、子どもたちに分け与えたいだけなんだよ」
「随分と見え透いた嘘ですね」
――一瞬、空耳か幻聴とも思ったが、違う。
セイフィードは立ち止まり、修道女の背を冷然と見つめた。
「確信が持てました。善良な富豪の皮で覆い隠した、貴方の本性に」
「虚構の皮を被っているのは、そちらではないかな?」
ゆっくり振り返る修道女の体がぶれ、陽炎のようにぼやける。
完全にセイフィードと向き合ったとき、そこに立っているのは記憶に新しい青年――ユティス。魔術で外見を誤魔化していたらしい。
「君か。これほどのことを仕組んでまで、私に何の用だい?」
「あくまで白を切るか。己の胸に訊くといい」
「君が何を誤解しているのか、私にはわからないな」
「〈人身仲介者〉」
顔にはおくびにも出さなかったが、セイフィードは動揺した。
なぜ、それを知っているのか。
しかしすぐさま自制し、呪文とともに指を鳴らす。魔法陣が浮かび上がり、セイフィードの忠実な使い魔が召喚――されなかった。魔法陣が出現しない。
「――騙欺魔術の奥義〈隔絶世界〉か」
高濃度な魔力による幻覚は、時として時空間に作用し、本物の異空間を創り出すという。話に聞いたことはあるが、実際に体験するのは初めてだ。
周囲の風景は修道院のまま。だが、側の壁に触れようとしても、手は壁をすり抜けた。空間の位相がずれている。これでは使い魔を呼べない上、外の人間たちにこちらは認識されない。存在するのはセイフィードとユティスのみ。
一切の邪魔が入らない、二人だけの世界。
「見事な魔術だ。けれども得てして、この手の魔術は外部からの干渉に弱い。使い魔ならば、破るのは容易い。私の消失にエリーサが気付くのも時間の問題――いや、こうしている間にも、私を助けようとしてくれているかもしれない」
「そう上手く事が運ぶと?」
ユティスの挑発に、セイフィードは余裕を持って微笑む。
「彼女は優秀だよ。異界種の中でも別格。甘く見るのは愚かだ」
「甘く見てはいない。僕の連れが対処している頃だと言うだけだ」
「……なるほど、幻覚魔術は君のお仲間のものか」
セイフィードの脳裏に、東洋人の少女が思い起こされた。
「ああ。ゆえに、僕はお前の粛清に集中できる」
ユティスが魔力を練る。静かな、されど強大な殺気が伝わる。
気乗りはしないが、秘密を知られたからには生かしておけない。
全く悪役の台詞だと自嘲しつつ、セイフィードもまた、魔力を練った。
◆
アカリは海辺で子蟹と戯れていた。指先でちょんと突いてやると、子蟹があっちこっちを行き来する。悪戯する子どもの無邪気な顔で、ふふっと笑う。
ゆったりとした空気を裂くように、大きな魔力が蠢いた。
視線の先には立派な屋敷。魔力はそこから発せられている。
「ここは危ないよ。海にお帰り」
子蟹を両手ですくい上げ、海の中にそっと投げ入れる。
ちょうどそのとき、屋敷の二階バルコニーから何かが飛んできた。
雷が落ちたかのような衝撃。砂浜にクレーターができ上がった。あらかじめ遮音幻覚を張っている。近隣住民が様子を見に来る心配はない。
クレーターの中心に人影が見えた。使い魔影と言うのが正しいか。
エリーサはエプロンドレスに付いた砂埃を払い落とした。
「マイオーナーはどこにおられますか? お連れ様とご一緒でしょうか?」
「そうです。私たちの仕業って、よくわかりましたね」
「貴女の魔力隠蔽は恐るべき精度ですが、私には通用いたしません。貴女が桁違いの魔力を隠しているのは、先日お見かけしたときから気付いておりました」
「じゃあ、どうしてオーナーさんに忠告しなかったんですか?」
「訊ねられませんでしたので」
がくっ。きっぱりと言い切られ、アカリはコケそうになった。
「理由は何であれ、うっかり天然メイドさんですね。あなたの判断がオーナーさんの運の尽きです。今頃、ユティス様の天誅がくだって――」
「存在は感知できませんが、マイオーナーはご存命でしょう。貴女がわざわざこの場に留まり、このように私の足止めをしているのが証拠です」
見透かされている。アカリは挙動不審になった。
「マイオーナーを隠しているのは、貴女の魔術と推察します」
「そそそそそれはどうでしょうねっ! そうとも限りませんよ!?」
「まずは貴女の命を絶ち、マイオーナーを解放していただきます」
エリーサがアカリに手を向ける。黒翼に魔力が流れ、何本もの羽根が放たれた。単なる羽根ではない。魔力でコーティングされ、刃物同様の鋭さだ。
目には目を、魔術には魔術を。アカリも全身に魔力を伝達する。
羽根の射線上に巨大な花冠が出現した。盾となり、羽根を阻む。花冠は切り刻まれ、花びらが舞い散る。その中をかいくぐって、エリーサが来た。
エリーサは背に手を伸ばし、自らの羽根を一本むしった。羽根はエリーサの手中で細く鋭く伸び、黒いつらら――槍状の武器に形状を変化した。
アカリの左腕を貫く。血が飛び、栗色の髪を赤く染める。
エリーサは追撃してこなかった。槍を手放し、素早く後退する。
苦痛に顔を歪めながら、アカリは強気で言った。
「どうしました? こんな傷、私はへっちゃらです。痛くも痒くもないです。私がいくら女性視点でも可愛いからって、手加減はやり過ぎですよ」
「手加減ではありませんが、本音を申しますと、拍子抜けしました」
エリーサの一貫した無表情に、ほんの微かな失望の色が差す。
「貴女の魔力総量は私より多い。人間では到底ありえません」
「……私は人間です」
「その言葉が真実なら、貴女はマイオーナーが求める解のひとつ。私の手に負えないかと危惧しておりましたが……どうやら、過大評価をしたようです」
「かっちーん! いくら私が女神の寛容を持つと言っても、聞き捨てなりませんね。もう勝負がついてしまったような言い草じゃないですか」
アカリが右腕を振り上げて抗議する。エリーサは首肯した。
「はい。おっしゃる通り、とうに決しています」
いきなり、アカリの腕に刺さった槍がどろりと溶けた。
傷口から侵入し、瞬く間にアカリの体内を巡る。続けざま、アカリに異変が生じた。体が重くなり、感覚が鈍る。肉体の自由が奪われていく。
「血牢。貴女の身は囚えました」
「しまっ……拘束魔術……」
液体を魔術媒介にし、血のごとく全身を巡らせて、アカリを縛った。
そのことを理解したときには、身動きできなくなっていた。
「膨大な魔力を有しても、行使できなければ、意味はありません」
エリーサが立ちはだかる。黒翼を器用に動かし、アカリの首に突きつけた。翼の先を先程の応用で刃状に変形している。即座に切断できる構えだ。
「言い残す言葉はございますか? お連れ様にお伝えいたしますが」
「意外と人間的ですね……。せっかくですが……特にありません」
「承知しました。では、ご機嫌よう」
首筋に翼を食い込ませる――代わりに、エリーサは全速力で飛んだ。
無表情がついに崩れている。当然だろう。強力な拘束魔術を施し、首に刃を突きつけていた。絶対的優位としか言えない状況が、覆されたのだから。
首を裂かれる瞬間、アカリは忽然とエリーサの視界から消えた。
そして今、アカリは真下でエリーサを見上げている。エリーサは気付いていない。――否、気付くわけがなかった。エリーサはとっくに術中だ。
「花の呪い――百華繚乱」
トラップ型の魔術。召喚した花を散らした者に幻覚をかける。
花冠は盾ではなかった。最初の攻防、あのときからずっと、エリーサは五感を狂わされ、アカリが描いた虚偽の世界に引きずり込まれていた。
現実ではアカリの左腕は貫かれていないし、拘束魔術も発動していない。エリーサに真のアカリの姿は見えず、声も聞こえず、魔力探知もできない。
ありとあらゆるものが、まやかし。
上空が騒がしい。幻惑されていると勘で悟ったのか、エリーサが滅茶苦茶に羽根を撃ち始めた。しかし、万が一にもアカリは被弾しない。方向感覚も支配済みである。エリーサの攻撃の照準は全て、知らず知らず虚空へ向く。
もはや、律儀に戦い続けるのは無意味に近かった。
『使い魔には用も罪もない。適当に時間を稼いでくれ』
別れる前、ユティスに言われた言葉を思い出す。
つまるところ、アカリの役目は終わった。
「言い残す言葉はありませんが……一言だけ言わせてもらいます!」
聞こえていないのはわかりつつ、エリーサを指差し、物申す。
「メイドさん、間違わないでください! ユティス様は私のお連れ様なんかじゃなく、私の旦那様です! ヒーイズマイハズバンド!」
アカリは満足そうに海辺を離れ、想い人のもとへと走った。