Episode 1 〈魔嵐将官〉
「早く決めてくださいユティス様。いい加減、私も我慢の限界ですぅ」
西洋最大の領土を有する大帝国の辺境、荒野に囲まれた小さな町の飲食店に、店員や常連たちも見慣れぬふたり連れがいた。
木製の丸テーブルに座す、青年と少女。
青年の年の頃は二十歳やや手前というところ。軍服に似た黒コートを羽織い、腰には長剣を吊っている。すらりとした長身で容貌も美形だが、切れ長の眼が放つ眼光は鋭く、他者を寄せ付けない雰囲気を醸し出していた。
対面に座る少女は東洋人だ。栗色の髪、大きな瞳と小柄な体が仔犬を髣髴とさせる。幼さが残る顔つきは人形のように整っており、大和撫子という言葉が相応しい。緋袴が異様に短い巫女装束を着ていて、滑らかな白いふとももがのぞく。
「そんなに腹が減っているのか。まだ昼時より少し早いが」
ユティスと呼ばれた青年が言うと、少女はテーブルを勢いよく叩いた。
「私を食いしん坊みたいに言わないでください! ユティス様は一体いつになったら、私のものになってくれるのかと訊いているんです!」
「馬鹿が。お前はいつになったら、僕にその気はないと理解する」
「……わかりました。じゃあ、代わりに私をユティス様のものにしてください」
「お前、何もわかっていないな」
ぷくーっ、と少女は頬を膨らませた。
「私は本気ですよ。ユティス様に性心精意お仕えしたいんです」
「誠心誠意の間違いだろう」
「いいえ、合ってます♡」
にこりと微笑む。ユティスは呆れて何も言えない。それ以上は取り合わず、店員に注文をしようとしたとき、観音開きの戸が開いた。
昼間から喧騒に満ちていた店が、一瞬で静まり返る。来店してきたのは屈強な大柄の男だった。ユティスとは違い、灰色をした本物の軍服を着ている。空想上の鳥を模した軍の意匠が、左胸で異彩を放つ。帝国の魔導軍人だ。
男はずんずんと歩き、カウンター席に巨体を下ろした。
男の特等席なのか、そこだけ椅子が大きく、周囲は空いている。
「い、いらっしゃいませ、ギルバート大佐」
「店一番の酒とつまみだ。さっさとしやがれ」
ビクつく店員に乱暴に告げ、懐から葉巻を取り出す。一服しながら、ギルバートは店内を見渡した。この間、誰一人として口を開く者はいない。
誰もがギルバートから視線を逸らし、あるいはうつむいた。明白な空気の変化を察し、ユティスも彼らに倣う。そんな中、空気を読まない者が一名。
「私はもう子どもじゃありません。ユティス様の愛を余すことなく、全身で受け止められます。お望みなら、今晩にでも純潔の花弁を散らす覚悟が――いえ、むしろ散らさせてください! 今晩――いえいえ、今すぐここで! 私なら心配ご無用です。二十四時間受け入れ態勢万全ですし、ユティス様以外の有象無象の環視なんて気に留めませんから。さあ、れっつごーとぅえくすたしーです!」
「落ち着け、馬鹿が。足に触るな」
無視し切れず、テーブル下に潜り込んだ少女をあしらう。
そのときには既に、二人を目に留めたギルバートが歩み寄っていた。
ユティス以上の長身に体格も相まって、まるで熊のごとき大男。隠す気のない剣呑さを漂わせつつ、厳つい強面で二人を見下ろす。
「僕らに何か?」
「やかましいクソガキ共だと思えば、見ない顔だな。どこから来やがった?」
「しがない旅人だ。連れの妄言が耳障りだったなら――至極同意する。謝ろう」
「がーん! ユティス様、酷い……っ!」
「邪魔をした。行くぞ、アカリ」
ユティスは店を後にしようと、打ちひしがれる少女――アカリの手を取った。
それだけでもうアカリは生き生きする。嬉しそうに「はい!」と返事をし、引かれるままついていく。ユティスの腕を離すまいと、がっちり握り返す。
「待ちな、嬢ちゃん」
ギルバートの隣を通り過ぎる瞬間、アカリは肩を掴まれ、引き止められた。
アカリをまじまじと見つめて、ギルバートが薄く笑う。
「ガキかと思ったが、なかなかの上物じゃねえか。俺と遊ばねえか?」
正気を疑う発言。軍人が真昼間から、公衆の面前で吐く台詞ではない。
だが、やはり誰も反応を示さず。店員も客も我関せずのスタンスを貫く。
もはや、ユティスとも視線を合わそうとしない。
彼らがギルバートを恐れていることは、火を見るより明らかだった。
「う……ちょっと、離してください」
「そう嫌がるなよ。金なら腐るほどあるし、何よりここは俺の町だ。付き合ってくれるってんなら、好きなものを何でも、好きなだけやるぜ?」
「……何でも、ですか?」
「ああ。服でも宝石でも、欲しいもんを言いな」
顎に手を添え、考える仕草をする。ややあって、アカリは満面の笑みで言った。
「じゃあ、ユティス様の心をください」
水を打ったような静寂。店内に緊張が走った。
アカリに悪意はないのだろうが、当然、彼女の発言はギルバートの逆鱗に触れてしまった。額に青筋が立ち、殺気と魔力がほとばしる。
「俺は眼中にないってか……随分お高く留まってやがるな、浮浪のクソガキ風情が。いいから、てめえは黙って、俺についてくりゃいいんだよ!」
ギルバートが強引にアカリを引き寄せた。
――刹那、アカリの瞳に狂気が宿るのをユティスは見逃さない。
「アカリ」
戒めるように、小さく名を呼ぶ。はっとするアカリ。
ユティスと目を合わせて数秒、彼の言わんとすることを悟り、実行に移す。
アカリは胸元に手を持っていき、いきなり白衣と襦袢をはだけた。
躊躇なく晒された乙女の上半身に、沈黙していた客が一斉にどよめいた。
手にすっぽり収まるくらいの、形の綺麗な胸。背中から腰にかけての曲線も絶妙。装束の上からではわからなかったが、東洋人の少女とは思えないスタイルだ。
同時に、その美しさを台無しにする傷跡の数々が、肢体に刻まれていた。
肩に火傷、背中に切り傷、乳房に裂傷、――肉体が原形を保っているのが不思議なほど。あらゆる創傷がフルコンプリートされており、見るに堪えない。
客たちは揃って顔を背けた。何人かは我慢できず、嘔吐する。
一般人より耐性があるものの、さしもの軍人ギルバートも辟易した。
「……コブつきなだけじゃなく、傷物かよ。一気に冷めちまった」
先程までの怒りはどこへやら、特等席へ戻っていく。
「耳障りな上に目障りだ。気持ち悪ぃ。さっさと俺の町から消えやがれ」
「長居するつもりはない。来い、アカリ」
元通り装束を着たアカリを従え、ユティスは今度こそ店を出た。
◆
ユティスとアカリは噴水広場のベンチに腰掛け、昼食をとっていた。
噴水の側では、子どもたちが水遊びをしている。簡単な浮遊の魔術で水を宙に浮かせ、互いにかけ合い、きゃあきゃあと仲良く騒ぐ。
他国で厳しく規制される一般人の魔術行使も、この魔導国家においては――いくつかの特例を除き――自由。魔術で遊ぶ子どもなど、珍しい光景ではない。
「よく機転を利かせた」
ホットドッグ片手に、ユティスはアカリに声をかけた。
「あの場で小競り合いを起こすのは、得策とは言えなかった」
「当然です。旦那の想いを汲み取るのが、嫁のメイン業務です」
褒められて嬉々とする。実際、アカリの咄嗟の機転のおかげで、ギルバートとの想定外の衝突を回避できたわけだ。しかし――
「なぜ、あんなやり方をした。お前の術なら、他の方法があっただろう」
「……どさくさに紛れて、ユティス様を誘惑しようかと」
「馬鹿が。子どもじゃないと喚くなら、女の価値を下げる行いは慎め」
「ユティス様……私を一人の女として見て……っ!? ついにその気になってくれたんですね!? そうなんですね!? 私は……私は感激の極みです!」
「違う。落ち着け。そして脱ぐな」
制止も聞かず、アカリがまたもや白日の下に半身を晒す。
張りのあるみずみずしい肌には、傷跡はおろか、染みひとつなかった。常人が嘔吐し、軍人が目を逸らすほどの凄惨さは影も形もない。
アカリはしなをつくり、上目遣いでユティスに迫った。
「さあ、ユティス様! ともに見事な比翼連理を築きま――」
最後まで言わせない。ホットドッグを口に突っ込み、黙らせる。
「いつも言っているはずだ。僕とお前は仲間でも、ましてや夫婦でも何でもなく、これから先もその関係は不変。お前がついてくるのは勝手だし、それなら僕はお前を利用するまで――が、僕にも我慢の限界というものはある」
射竦める視線、険しい声音で言い捨てた。脅しではなく、最後通牒のつもりで。ところが、どうやらアカリは聞いていない。口内のものに夢中だ。
「ユユユユユティス様の食べかけ……もぐもぐ……間接キスを飛び越えて、間接摂取……はむはむ……ユティス様の味がします。アカリはとっても幸せです♡」
「動物の屍肉と小麦粉の味の間違いだ」
「私は細胞レベルでユティス様を感じ取れます」
何を言っても無駄か。ユティスは諦めて話を切り替えた。
「魔導師団所属、ギルバート・エスクドア大佐。通称〈魔嵐将官〉」
「……将官? 大佐なのに将官って、おかしくないですか?」
「通称と言っただろう。帝国による先の中東侵略の折、奴の率いる部隊が功績を上げ、奴は昇進確実と噂された。だが、あの性格だ。調子に乗って、問題を起こした。それだけなら些事で済んだろうが、なまじ目立っていたせいで、隠蔽した過去の問題行為までもが暴かれ、追及された。結果、奴の将官への昇進は幻と消えた」
〈将官〉とはつまり、ただの皮肉に過ぎない。
「通称てか、悪口ですよね」
「そうとも言い切れない。人間性はともかく、実力は師団上位クラスだそうだ。優秀な魔術師なのは違いない。ゆえに、奴はここに飛ばされたようだが」
ユティスとアカリは町を眺めた。荒野に囲まれた辺境の町を。
「ここら一帯は陸の孤島。以前は盗賊の格好の標的で、そういう輩の溜まり場だった。国としては悩みの種だな。この戦争の時世、辺境に無駄な戦力を割きたくはないが、野放しにはできず、中途半端な戦力を送るわけにもいかない」
その点、ギルバートはあつらえ向きである。不安要素を抱えた爆弾を、国の膝元からは離しつつも、最大限活用する――実に合理的。
しかし、爆裂の被害を被るのはここに住む町民たちだ。飲食店で目にしたように、町は実質的にギルバートに支配されてしまっている。
「名目上は自分たちを護る救世主、さらに、束になっても敵わない。町民たちは逆らいたくても逆らえない。奴が救世主でなく、寄生虫だとわかっていても」
「だから、ユティス様がやるんですよね?」
屈託のない表情を浮かべて、アカリが訊く。
「ああ。僕が奴を狩る」
ユティスは噴水の向こう、部隊の駐屯地に目を向けた。