かなしいこと、ばかりじゃないよ
晶は気が滅入っていた。
目の前には、赤い×印が踊るワーク。『公民』と書かれたそれを、晶は悔しそうに見つめていた。
──もうすぐ、高校受験なのに。
晶は、学校ではわりと勉強ができるほうだ。志望校も、このあたりではレベルの高い進学校にしている。
しかし、三年で公民が始まってからというもの、どうも社会が伸び悩んでいる。
「……だいたい政治とか国会のしくみとか、おもしろくないんだって」
晶は思わず毒づいた。暗記科目よりも、関連づけて覚えられる理系科目のほうが性に合うのだ。
赤いワークを目を背けて閉じ、机の端へ押しやる。そして、晶が座ったまま小さく伸びをしたとき、部屋のドアが控えめにノックされた。
──父さんならもっと強いし、母さんはそもそもノックなんてしない。
母さんもノックくらいしてくれないかな、と思っているとドアが開き、弟である樹がひょっこりと顔だけ覗かせた。
──ほら、やっぱイツキだった。
「アキ兄」
アキラ、だからアキ兄。
樹は晶をお兄ちゃんとは呼ばない。安直な呼び方だが、晶は樹にそう呼ばれるのを実は気に入っている。
「イツキ、どうした?」
晶がそう問うと、樹は部屋に足を踏み入れながら、数学の教科書とノートを目の高さまで持ち上げた。
「宿題、わかんないとこあるんだけど、訊いてもいい?」
「数学はまかせろ」
晶は安心させるように樹にそう言った。晶は数学がすべての科目で一番得意なのだ。
内容も、きっと一次方程式や比例のグラフだろう。そう晶が思っていると、案の定、樹が訊いてきたのは比例のところだった。
樹に教えるため、晶は樹に椅子を譲る。自らは机に片手をついて、樹がわかってくれるように、ゆっくり丁寧に説明を始めた。
「……だから、このグラフの傾きがこうってわかるわけ。どう、なんとなくでもわかりそう?」
ちゃんと伝わるように教えられているかが心配で、晶は樹の顔をのぞき込んだ。
「わかったよ! やっぱアキ兄はすごいね!」
しかし、その心配は杞憂に終わり、樹は弾んだ声で答えた。
晶はその様子にほっとすると同時に、嬉しくなった。わかりやすい、と言われるとやはり悪い気はしない。
「それなら俺もよかったよ。この問題も同じやり方だから、今度は自分でやってみな」
あ、適当な裏紙にでいいよ、とノートを開こうとした樹をとめる。そして晶は紙を手渡すと、代わりに樹のノートを手に取った。
ノートには、中一男子にしてはいやに綺麗な字が並んでいた。兄である晶よりも余程うまい。
だが、それよりも目を引いたことがあった。
少し躊躇ってから、小柄な背中に晶は尋ねた。
「イツキ、……やっぱノートは緑がメイン?」
先生が白以外のチョークで板書したとみられる箇所。樹はそれらを全て緑色で書いていた。赤という定番カラーは一切ない。
その結果、緑の部分が多いノートができあがっているのである。ちなみにノートの表紙も緑色だった。
「うん。黒板には赤とかで書いてあるみたいなんだけど、やっぱり見づらくって」
樹は顔をあげずにそう答える。
樹は赤系統の色の判別ができない。俗にいう色盲だった。
色盲が発覚したのは、樹が小一のとき。図工の時間で、絵の具で虹を描く授業だったらしい。
先生の言うとおり、児童たちは赤、橙、黄……と塗っていく。最後に紫を塗り、絵が完成したときだった。
せんせい、いつきくんまちがえてる。
児童の誰かがそう言った。
児童の虹は形に差はあるものの、どれも赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七色が順番に並んでいる。しかしその中で唯一、樹の虹だけが異なっていた。
赤の部分が、こげ茶。
先生もさすがにおかしいと思ったようで、母に連絡がいった。すぐに病院で検査をしたところ、赤色が見えにくい『1型3色覚』という色盲の部類であることが判明した。
それから自宅内部の赤色は減ったものの、それ以外に大きな変化は特になかった。樹の生活も今までとほとんど変わりなかった。
晶は一度、樹に尋ねたことがある。
色がわからないって、つらくないのか。
あのときは無神経ことを言った、と晶は今でも反省する。しかし樹は気にするふうもなく、こう答えたのだ。
「だって、元々知らないんだから、つらいも何もないよ」
そりゃ確かにみんなと話が噛み合わないときとかあるけど、と口を少しとがらせた樹を見て、怒らせたかと晶は焦った。
だが、次にはもう樹は笑っていた。
でもね、と言葉が続く。
「かなしいこと、ばかりじゃないよ」
緑色は大好きだし、僕の名前、樹だから。
穏やかに微笑んだ顔を、晶は、今も鮮明に思い出せる。
晶は、さっきまで自分が向き合っていた赤いワークを思い出し、樹のノートと見比べた。
「……目に優しいな」
突然口を開いた晶に、樹がわずかに顔をあげた。その眉間には微妙に皺が寄っている。
「……なにが?」
訝しげにそう言った樹に、なんでもない、と返しながら晶はふと思った。
緑は安らぎを与える色。
──みんな、緑色が好きなら穏やかなのかな、イツキみたいに。
樹の緑ノートを見て、自分の赤ワークに対する苛立ちが収まっていたことに、晶は今更ながら気がついた。
そのことに思わず苦笑しそうになったとき、樹がバッと体を起こした。
「解けたー! アキ兄答えは?」
純粋そのものの顔で晶を見上げ、答えを急かした。そんな慌てなくても、となだめながら、晶は採点をする。
「……お、合ってるよ」
解き方も問題なし、と付け加える。すると、樹の表情が見る間に明るくなった。
「よかったな」
樹があまりにも嬉しそうだったので、晶はわしゃわしゃと樹の頭を撫でた。やめろー、と樹が笑いながら逃げる。
晶の手からするりと抜けた樹は、教科書とノートを持ってそのまま部屋を出ていこうとした。しかし、ドアに手をかけたところで振り返ると、
「アキ兄、あとでゲームしない?」
問題が解けたときと同様、期待を隠せないような表情で晶に尋ねた。
これでもしばらく後にはテストだし、そもそも受験生だが、
……まあ、少しならいいか。
気分転換も必要だし、樹もすごくやりたそうにしているなら。
でも、その前に。
「いいけど、あと三十分くらい後でもいいか?」
やることがあるんだと言うと、樹は満面の笑顔で頷き、部屋から出ていった。ドアを閉める間際、準備してるね、と言い残して。
樹が部屋から離れたのを確認して、晶は再び赤くなった公民のワークを開いた。
──もう一度、もう少し。
脳裏に、穏やかな緑色が見えた気がした。