第9話:『市電の車窓から、パパが消えた日』
『市電の車窓から、パパが消えた日』
愛車を不知火の海に「納車」してから一週間。
父さんの生活は、優雅なドライブから、熊本市電のガタゴト揺れる通勤へと一変した。
最初は面白がって車内実況をしていた父さんだったが、ある朝、僕は見てしまった。
父さんが無意識に、小声でニュース原稿をさらっていた時のことだ。
「……本日未明、熊本市内の……」
「ねえ、見て。あの人、滑舌良すぎてマジ怖くない?」
「ウケる。朝からあんなハッキリ喋らなくてもいいのにね。機械みたい」
近くにいた女子高生たちの、悪気のない笑い声。
父さんの口が、石のように固まった。
彼は窓の外、熊本城の石垣を遠く見つめながら、存在感を消すように肩をすぼめた。
僕は、黙って父さんの袖を少しだけ引いた。父さんの手は、冬の寒さとは別の理由で、小刻みに震えていた。
その夜、帰宅した僕たちを待っていたのは、居候二人による「航の救済案」を巡る醜い戦争だった。
「譲、お前の騒音は聴覚的汚染だ! 航には今、論理的な休息が必要だ!」
「うるせえ教育者! 理屈じゃねえんだよ、魂だろ!」
詰め寄る二人を前に、父さんはバッグを床に落とし、力なくソファーに沈んだ。
「……もう、喋りたくないんだ。……僕の滑舌は、人を怖がらせるための、不気味な特技だったんだよ」
リビングが、凍りついた。
譲叔父さんがギターを置き、佐藤先生がホワイトボードのマーカーを落とした。
彼らは気づいたのだ。自分たちの「支えたい」という言葉が、今の父さんにとっては一番鋭い「ノイズ」になっていたことに。
僕は、黙ってタブレットを父さんの目の前に置いた。
そこには、市電の中で録音した、父さんのニュース読みの音声と、僕の殴り書きが残っていた。
『今日のパパの「本日未明」は、最高だった。隣にいた女子高生はわかってないけど、あの滑らかさは、パパが毎日練習している証拠。僕は、パパの喋り方で朝が始まるのが好きだ。パパの声は、僕たちの家の、本当の時計の音だから』
父さんは、画面を見つめたまま動かなかった。
やがて、父さんの目から、溢れた涙がタブレットの画面にポツリと落ちた。
「……アニキ。不協和音も、たまには静かに休ませてやるよ」
譲叔父さんが、父さんの背中を大きな手で叩いた。
「……航。君が喋らなくていいように、私が最高に論理的で、温かい味噌汁を作ろう」
その夜、リビングはかつてないほどの静寂に包まれた。
けれど、それは母さんが死んだ時の冷たい沈黙ではなく、みんなで等しく分かち合う、ぬくもりのある静寂だった。
『我が家のQOL、本日、微増。……父さんの滑舌はまだ本調子ではない。けれど、佐藤先生の異常にしょっぱい味噌汁を飲んで、父さんは久しぶりに『普通の人』の顔で笑った。……不気味なんかじゃない。その笑い声こそが、僕たちの家のリズムだ』




