第8話:三十五歳のバースデー・ダイブ
『三十五歳のバースデー・ダイブ』
一月。熊本の朝は、痛いほどの冷気に包まれる。
父さんは、洗面所の鏡の前で、自分の顔を左右から入念に実況していた。
「……本日、水前寺航、三十五歳の誕生日を迎えました。四捨五入すれば四十。もはや人生の後半戦。……ん? 今、目尻に『絶望』という名の小じわを確認。現場から、老いゆくキャスターがお伝えしました」
「パパ、朝からうるさい」
僕は冷めた声でツッコミを入れながら、ランドセルを背負う。
だが、父さんの「おじさんクライシス」は深刻だった。彼は自分の若さが砂のように零れ落ちることに怯え、必死に「お兄さん」であろうともがいていた。
そんな父を元気づけようと、居候コンビが動いた。
彼らがターゲットにしたのは、父の愛車・スペーシア。父が「移動式スタジオ」と呼び、母さんの香水の匂いが唯一残っているその空間を、彼らは「ソウルフル」に改装しようとしたのだ。
事件は、不知火の海を見下ろす坂道で起きた。
信号待ちで追突され、パニックになった譲叔父さんが車を降りた瞬間。サイドブレーキが甘かった「移動式スタジオ」は、重力という名の無情なビートに乗って、坂道を転がり始めたのだ。
「止まれ! 誰か止めてくれ! 教育的指導だぞ!」
追いかける佐藤先生の叫びも届かず、車は美しい放物線を描き——。
ザブーン!!
父の三十五歳の誕生日の夕方。
水前寺家のリビングに届いたのは、ずぶ濡れの二人の男と、レッカー移動された「藻まみれのスペーシア」の写真だった。
「……パ、パパ。お誕生日、おめでとう。……これ、シートカバー。アニキが元気出るように、魔除けのヒョウ柄選んだんだけど……」
譲叔父さんが差し出したのは、塩水でベチャベチャになった、毒々しいほど派手な布切れだった。
父さんは、一言も発さなかった。
窓の外、夕闇に沈む熊本市内の街並みを見つめながら、静かに、本当に静かに涙を流していた。
その涙は、車を失った悲しみではない。ダッシュボードに置いていた、母さんの最後の手紙が、もう二度と読めない塩の塊になったことへの、絶望の音だった。
「……航。保険の手続きは、私が論理的に進めておく。……それと、この代車(軽トラ)も、視界が広くて教育現場向きだぞ」
佐藤先生の励ましが、通夜のようなリビングに虚しく響く。
僕は、黙って台所から温かい蒸しタオルを持ってきて、父の埃っぽい顔に押し当てた。タオルの隙間から、父の深い溜息が漏れる。
「……修。パパ、やっぱり後半戦、失格かな」
「……まだ始まったばかりでしょ。市電通勤、実況の練習にちょうどいいじゃん」
僕の言葉に、父は力なく笑った。
僕は、その様子をタブレットに記録した。
『我が家のQOL、本日、海底まで沈没。父さんの三十五歳は、オーシャンダイブで幕を開けた。……けれど、藻の匂いがするリビングで、僕たちは初めて、父さんの『弱さ』という名の、本当の顔を見た気がする』
その夜、僕たちは、塩辛い味がするケーキを囲んで、史上最悪にシュールな誕生日会を開いた。
明日から、父さんの「かっこ悪い後半戦」が始まる。




