表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ニュースキャスターの父、ロッカーの叔父、教師の居候。この家、まともな大人が不在です』  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン1

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/22

第8話:三十五歳のバースデー・ダイブ

『三十五歳のバースデー・ダイブ』

 一月。熊本の朝は、痛いほどの冷気に包まれる。

 父さんは、洗面所の鏡の前で、自分の顔を左右から入念に実況していた。

「……本日、水前寺航、三十五歳の誕生日を迎えました。四捨五入すれば四十。もはや人生の後半戦。……ん? 今、目尻に『絶望』という名の小じわを確認。現場から、老いゆくキャスターがお伝えしました」

「パパ、朝からうるさい」

 僕は冷めた声でツッコミを入れながら、ランドセルを背負う。

 だが、父さんの「おじさんクライシス」は深刻だった。彼は自分の若さが砂のように零れ落ちることに怯え、必死に「お兄さん」であろうともがいていた。

 そんな父を元気づけようと、居候コンビが動いた。

 彼らがターゲットにしたのは、父の愛車・スペーシア。父が「移動式スタジオ」と呼び、母さんの香水の匂いが唯一残っているその空間を、彼らは「ソウルフル」に改装しようとしたのだ。

 事件は、不知火の海を見下ろす坂道で起きた。

 信号待ちで追突され、パニックになった譲叔父さんが車を降りた瞬間。サイドブレーキが甘かった「移動式スタジオ」は、重力という名の無情なビートに乗って、坂道を転がり始めたのだ。

「止まれ! 誰か止めてくれ! 教育的指導だぞ!」

 追いかける佐藤先生の叫びも届かず、車は美しい放物線を描き——。

 ザブーン!!

 父の三十五歳の誕生日の夕方。

 水前寺家のリビングに届いたのは、ずぶ濡れの二人の男と、レッカー移動された「藻まみれのスペーシア」の写真だった。

 

「……パ、パパ。お誕生日、おめでとう。……これ、シートカバー。アニキが元気出るように、魔除けのヒョウ柄選んだんだけど……」

 譲叔父さんが差し出したのは、塩水でベチャベチャになった、毒々しいほど派手な布切れだった。

 父さんは、一言も発さなかった。

 窓の外、夕闇に沈む熊本市内の街並みを見つめながら、静かに、本当に静かに涙を流していた。

 その涙は、車を失った悲しみではない。ダッシュボードに置いていた、母さんの最後の手紙が、もう二度と読めない塩の塊になったことへの、絶望の音だった。

「……航。保険の手続きは、私が論理的に進めておく。……それと、この代車(軽トラ)も、視界が広くて教育現場向きだぞ」

 佐藤先生の励ましが、通夜のようなリビングに虚しく響く。

 僕は、黙って台所から温かい蒸しタオルを持ってきて、父の埃っぽい顔に押し当てた。タオルの隙間から、父の深い溜息が漏れる。

「……修。パパ、やっぱり後半戦、失格かな」

「……まだ始まったばかりでしょ。市電通勤、実況の練習にちょうどいいじゃん」

 僕の言葉に、父は力なく笑った。

 僕は、その様子をタブレットに記録した。

『我が家のQOL、本日、海底まで沈没。父さんの三十五歳は、オーシャンダイブで幕を開けた。……けれど、藻の匂いがするリビングで、僕たちは初めて、父さんの『弱さ』という名の、本当の顔を見た気がする』

 その夜、僕たちは、塩辛い味がするケーキを囲んで、史上最悪にシュールな誕生日会を開いた。

 明日から、父さんの「かっこ悪い後半戦」が始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ