第6話:世紀の一戦、あるいは世紀の失言
『世紀の一戦、あるいは世紀の失言』
「世紀の一戦。そのゴングが鳴るまで、あと三十分。現場から、水前寺航がお伝えします」
テレビ画面に映る父さんは、まさに絶頂期にいた。ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチ。そのメインキャスターという大役は、彼のアナウンサー人生における最高到達点だった。
だが、その後の数分間が、水前寺家の運命を暗転させた。
「島袋さん、この試合、最愛のご家族も応援していらっしゃることでしょう。……特に、奥様が家出をされてからの初戦、期するものがあるのではないですか?」
一瞬、全世界の空気が凍りついた。
リビングで見守っていた僕たちの呼吸も止まった。画面の中の島袋選手の拳が、ピクリと震える。
「……え? 家出……? 妻が?」
「えっ? あ、いや、失礼。……すでに共有されている情報かと……」
父さんの顔から、サァッと血の気が引いていくのがわかった。島袋選手は、合宿中だから連絡が取れないだけだと信じ込んでいたのだ。
父さんは、知っていた。誰よりも「妻がいない家庭」の崩壊を知っていたからこそ、その情報に過敏になり、無意識に言葉が零れてしまったのだ。
その後の試合は、悲惨なものだった。
「鋼鉄の拳」は見る影もなく、島袋選手は一ラウンド、妻の不在という現実の重みに押し潰されるようにマットに沈んだ。世紀の一戦は、父さんの一言による「虐殺」へと変貌したのだ。
深夜。玄関のドアが、重い音を立てて開いた。
「……ただいま」
入ってきた父さんは、スーツを泥のように引きずっていた。あれほど完璧だった髪型は崩れ、自慢の滑舌は見る影もなく、喉の奥でヒューヒューと乾いた音が鳴っている。
「パパ、おかえり……。あの、テレビ、観てたよ。その……」
小穂姉ちゃんが声をかけるが、言葉が続かない。
「……僕は、終わりだ。言葉で、人を殺してしまった」
父さんはリビングの床に崩れ落ち、膝を抱えて丸くなった。
「アニキ、立てよ」
譲叔父さんが、ギターも持たずに父の前に立った。
「俺が島袋さんの家に乗り込んで、詫びのバラードを歌ってきてやる。奥さんをステージに連れ戻す。それが、俺なりの、レクイエムだ」
「航。……島袋選手の精神的ダメージを回復させるための『再教育プログラム』を私が作成した。まずは彼に、失われた日常を取り戻させるための授業が必要だ」
佐藤先生も、百科事典を閉じてそう告げた。
二人とも、バカだ。バカだけど、彼らは必死だった。父さんがこのまま「沈黙」の中に消えてしまうのを、何より恐れていた。
そこへ、真菜姉ちゃんが一杯のココアを置いた。
湯気からは、あの懐かしい、母さんが作っていた「砂糖を入れすぎた」甘い匂いがした。
「パパ。あんたは最低なミスをしたわよ。世界中の笑いものよ」
真菜姉ちゃんが、父の震える背中を見つめたまま言った。
「でもね。家出された選手の気持ちが一番わかるのは、あんたでしょ。……島袋さんには、明日、私たちも一緒に謝りに行く。小穂が撮った、パパが掃除機と格闘して転んだ動画を持って。……家族がいないってことが、どれだけ情けなくて、でも、どれだけ必死に生きてるかってこと、見せに行くのよ」
父さんは、ココアのカップを握りしめたまま、声を殺して泣き始めた。
プロのキャスターではなく、ただの、情けない、失敗した父親として。
僕は、その様子をタブレットに記録した。
『我が家のQOL、本日、歴史的暴落。しかし、家族という名のセーフティネットは、ヘビー級のパンチよりもしぶとい。……島袋さん、いつか、僕のパパと、本物のココアを飲んでください』
翌朝、水前寺家には、いつも通りやかましい騒音が響いた。
父さんは、掠れた声で、それでも一文字ずつ丁寧に「おはよう」と繰り返していた。




