表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ニュースキャスターの父、ロッカーの叔父、教師の居候。この家、まともな大人が不在です』  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン1

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/24

第6話:世紀の一戦、あるいは世紀の失言

『世紀の一戦、あるいは世紀の失言』

 「世紀の一戦。そのゴングが鳴るまで、あと三十分。現場から、水前寺航がお伝えします」

 テレビ画面に映る父さんは、まさに絶頂期にいた。ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチ。そのメインキャスターという大役は、彼のアナウンサー人生における最高到達点だった。

 だが、その後の数分間が、水前寺家の運命を暗転させた。

「島袋さん、この試合、最愛のご家族も応援していらっしゃることでしょう。……特に、奥様が家出をされてからの初戦、期するものがあるのではないですか?」

 一瞬、全世界の空気が凍りついた。

 リビングで見守っていた僕たちの呼吸も止まった。画面の中の島袋選手の拳が、ピクリと震える。

「……え? 家出……? 妻が?」

「えっ? あ、いや、失礼。……すでに共有されている情報かと……」

 父さんの顔から、サァッと血の気が引いていくのがわかった。島袋選手は、合宿中だから連絡が取れないだけだと信じ込んでいたのだ。

 父さんは、知っていた。誰よりも「妻がいない家庭」の崩壊を知っていたからこそ、その情報に過敏になり、無意識に言葉が零れてしまったのだ。

 その後の試合は、悲惨なものだった。

 「鋼鉄の拳」は見る影もなく、島袋選手は一ラウンド、妻の不在という現実の重みに押し潰されるようにマットに沈んだ。世紀の一戦は、父さんの一言による「虐殺」へと変貌したのだ。

 深夜。玄関のドアが、重い音を立てて開いた。

「……ただいま」

 入ってきた父さんは、スーツを泥のように引きずっていた。あれほど完璧だった髪型は崩れ、自慢の滑舌は見る影もなく、喉の奥でヒューヒューと乾いた音が鳴っている。

「パパ、おかえり……。あの、テレビ、観てたよ。その……」

 小穂姉ちゃんが声をかけるが、言葉が続かない。

「……僕は、終わりだ。言葉で、人を殺してしまった」

 父さんはリビングの床に崩れ落ち、膝を抱えて丸くなった。

「アニキ、立てよ」

 譲叔父さんが、ギターも持たずに父の前に立った。

「俺が島袋さんの家に乗り込んで、詫びのバラードを歌ってきてやる。奥さんをステージに連れ戻す。それが、俺なりの、レクイエムだ」

「航。……島袋選手の精神的ダメージを回復させるための『再教育プログラム』を私が作成した。まずは彼に、失われた日常を取り戻させるための授業が必要だ」

 佐藤先生も、百科事典を閉じてそう告げた。

 二人とも、バカだ。バカだけど、彼らは必死だった。父さんがこのまま「沈黙」の中に消えてしまうのを、何より恐れていた。

 そこへ、真菜姉ちゃんが一杯のココアを置いた。

 湯気からは、あの懐かしい、母さんが作っていた「砂糖を入れすぎた」甘い匂いがした。

「パパ。あんたは最低なミスをしたわよ。世界中の笑いものよ」

 真菜姉ちゃんが、父の震える背中を見つめたまま言った。

「でもね。家出された選手の気持ちが一番わかるのは、あんたでしょ。……島袋さんには、明日、私たちも一緒に謝りに行く。小穂が撮った、パパが掃除機と格闘して転んだ動画を持って。……家族がいないってことが、どれだけ情けなくて、でも、どれだけ必死に生きてるかってこと、見せに行くのよ」

 父さんは、ココアのカップを握りしめたまま、声を殺して泣き始めた。

 プロのキャスターではなく、ただの、情けない、失敗した父親として。

 僕は、その様子をタブレットに記録した。

『我が家のQOL、本日、歴史的暴落。しかし、家族という名のセーフティネットは、ヘビー級のパンチよりもしぶとい。……島袋さん、いつか、僕のパパと、本物のココアを飲んでください』

 翌朝、水前寺家には、いつも通りやかましい騒音が響いた。

 父さんは、掠れた声で、それでも一文字ずつ丁寧に「おはよう」と繰り返していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ