第5話:パパという名前の、世界で一番難しい肩書き
『パパという名前の、世界で一番難しい肩書き』
「本日の『朝のニュース・プラス』、メインキャスターの水前寺航がお伝えしました。……それでは皆様、良い一日を」
スタジオの「ON AIR」が消えた瞬間、父さんはプロの笑顔を脱ぎ捨てた。
今日は次女、小穂姉ちゃんのダンス発表会だ。
だが、楽屋のドアを開けた父さんを待っていたのは、プロデューサーの非情な一言だった。
「水前寺さん、悪い! 緊急特番だ。今すぐ現場へ」
客席の最前列でカメラを構えていた僕のスマートフォンが、短く震えた。
『ごめん。仕事が入った。小穂に謝っておいてくれ』
たった三行。画面の光が、僕の指先を冷たく照らす。
「……まただよ。パパ、これで三回連続」
ステージの上、華やかな照明の下で踊り終えた小穂姉ちゃんが、誰も座っていない、一脚だけ浮いた「父さんの指定席」を見つめて唇を噛んだ。
結局、その後のバーゲンには居候組の二人が付き添うことになった。
事件は、マクドナルドでの休憩中に起きた。
「ねえ、パパ。これ、お母さんの色に似てるかな?」
長女の真菜姉ちゃんが、隣に座っていた叔父の譲に向かって、事も無げにそう言ったのだ。
ポテトを食べていた譲叔父さんが、喉を詰まらせて派手に咳き込んだ。
「……マ、真菜。俺はパパじゃねえ、叔父さんだろ?」
「あ……ごめん。つい、ね」
真菜姉ちゃんは気まずそうに笑ったが、その瞳の奥には、自分でも制御できない深い渇きが滲んでいた。
その様子を、遅れて合流した父さんが物陰から見ていた。タクシーを飛ばして、ネクタイを振り乱してやってきた彼は、娘が自分以外の男に「父親」を投影した事実に、どんな放送事故よりも深く打ちのめされていた。
「……明日は、仕事を休む」
その夜、リビングで父さんは、絞り出すような声で宣言した。
「局には代役を立てた。明日は一日、真菜と小穂、そして修。四人で、本当の家族に戻ろう」
翌日、父さんは「完璧な父親」を演じきった。
朝から豪華なフレンチトーストを焼き、ショッピングモールで娘たちの荷物を全部持ち、彼女たちが笑うたびに「今の笑顔、最高だね!」と、テレビの食レポのような完璧なトーンで盛り上げた。
でも、その笑顔はどこか、原稿を読んでいる時と同じ「記号」に見えた。
夕暮れ。モールの屋上で、真菜姉ちゃんと父さんが二人きりになった。
「どうだい真菜。今日は楽しかったかな?」
父さんが、少し疲れた、けれど満足げな笑顔で尋ねる。
「パパも、君たちと過ごせて本当に……」
「パパ、もういいよ」
真菜姉ちゃんが、オレンジ色の夕日に目を細めながら、重い口を開いた。
「無理して休んで、高いプレゼント買って、そうやって『いいお父さん』の役を演じられるのが、一番しんどいんだよ」
「……真菜?」
「昨日、譲叔父さんのことをパパって呼んだのはね、別に間違えたわけじゃないの。……あの人が、毎日家で私たちの最悪な顔を見て、一緒に焦げたパンを食べて、バカなことで笑わせてくれるから。……今のこの家で、血は繋がってなくても、一番『パパの役割』をしてるのは、テレビの中にいるあなたじゃなくて、そこにいてくれるあの人たちなんだよ」
父さんは、言葉を失った。
ニュースの原稿ならいくらでも読めるのに、娘の、この剥き出しの孤独に対する返答を、彼は一文字も持っていなかった。
「……パパは、仕事をして、お金を稼いで、私たちを養わなきゃいけない。それはわかってる。でもね、私たちは『完璧なパパ』との一日限定のデートが欲しいんじゃない。……ただの、ネクタイも自分で結べないような、かっこ悪いパパとの、普通の毎日が欲しいだけなんだよ」
真菜姉ちゃんの目から、一筋の涙がこぼれた。
僕は遠くから、その光景を見ていた。
隣では、佐藤先生が静かに空を見上げていた。
「……修。教育にはね、『特効薬』なんてないんだ。毎日の、みっともない積み重ね、それだけが家族を家族にするんだよ」
僕は何も答えず、手元のタブレットに今日の記録を書き込んだ。
『我が家のQOL、本日、測定不能。ただし、心の湿度だけは100パーセント。……明日の朝食は、パパが自分でネクタイを締められるまで、僕が手伝ってあげようと思う。それが、僕たちなりの再履修だ』
夕闇が迫る屋上で、父さんは初めて、プロのアナウンサーとしてではなく、一人の情けない父親として、娘の肩をぎこちなく抱き寄せた。
アロハシャツに染み込んだ潮の匂いと、慣れないフレンチトーストの焦げた匂いが、二人の間で静かに混ざり合っていた。




