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『ニュースキャスターの父、ロッカーの叔父、教師の居候。この家、まともな大人が不在です』  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン3

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第26話『言霊の迷宮、姓名の数式』

『言霊の迷宮、姓名の数式』

 水前寺家のリビングは、もはや戦場だった。

 中央のホワイトボードには、佐藤先生が書き殴った「画数別運勢推移グラフ」と「AIによる20年後の流行名予測」が複雑に絡み合っている。

「航さん、あなたの提案する『阿蘇あそ』と『火のひのくに』は、あまりにも地域特性に偏りすぎています。統計学的に見て、キラキラネームの境界線を踏み越えている!」

「何を言うか、佐藤! 名前は口に出して呼ばれて初めて完成するんだ。『おはよう、阿蘇くん!』……どうだ、この清々しい響きは! お前の『健一(仮)』『健二(仮)』なんて、あまりに変数扱いが過ぎるだろ!」

 真菜と修は、飛び交う「名案(迷案)」を避けながら、端の方で冷めたピザを食べていた。

「……ねえ、パパたち。由佳さんと譲叔父さんが、泣きそうな顔で寝室に引っ込んじゃったよ」

 修が呆れて指摘するが、二人の暴走は止まらない。

 航はついに、局のライブラリから持ち出した「人名辞典・古語篇」を畳に叩きつけた。

「いいか、佐藤! 俺はこの子たちに、熊本の風のように自由で、誰からも愛される名前を贈りたいんだ。理屈で人生が決まってたまるか!」

「航さん……理屈こそが、彼らを守る防具になるのです。名前という最初の呪縛スペルを、我々が不完全に設定してはならない!」

 その時、静かにドアが開いた。

 譲だった。彼はギターを持たず、手には一枚の古びた、色褪せた封筒を持っていた。

「……二人とも、ちょっとこれ、見てくれよ」

 それは、10年前、亡き姉(航の妻)が、真菜を妊娠していた時に書き残していた「いつか二人目が生まれたら」というメモだった。

 そこには、達筆ではないが、温かい文字でこう書かれていた。

『もしも二人が揃ったら、海のように広い心と、空のように高い志を。……かいと、そら

 航の言葉が止まった。佐藤先生のマーカーを握る手が止まった。

 

「……姉さんはさ、画数なんて知らなかったし、アナウンサーの滑舌も気にしなかった。ただ、子供たちが、この世界のどこにいても見上げられる名前がいいって、そう言ってたんだ」

 譲の声は静かだったが、リビングの熱狂を一瞬で鎮めた。

 佐藤先生は、ゆっくりとホワイトボードへ向かった。

 彼は、これまで書き連ねた膨大なデータを、大きなイレイザーで一気に消し去った。

 真っ白になったボードの真ん中に、彼はただ二つの漢字を、丁寧に、心を込めて記した。

『海』『空』

 

「……画数は、完璧ではありません。しかし、意味論における幸福の含有量は、私の計算を遥かに凌駕しています」

 佐藤先生は、眼鏡を外して目元を拭った。

 航は、その文字をじっと見つめ、喉を詰まらせながら呟いた。

「……海と、空か。……いい響きだ。俺のどの原稿よりも、ずっと、伝わってくる」

 寝室から、不安げに様子を伺っていた由佳が顔を出した。

「……決まったんですか?」

「ああ」

 航が、かつてないほど優しい、プロのキャスターの声で言った。

「由佳ちゃん、譲。最高の名前を、お前たちの姉さんが用意してくれていたよ。……海と空。二人の、一生の宝物だ」

 真菜が小穂を抱き上げ、修が満足そうに頷く。

 

 水前寺家のリビングには、再び静寂が訪れた。

 ホワイトボードに残された二つの文字は、まだ見ぬ新しい家族を、真っ白なキャンバスのような優しさで待っていた。

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