第23話『論理的喜劇、あるいはホワイトボードの断末魔』
『論理的喜劇、あるいはホワイトボードの断末魔』
その朝、佐藤先生のネクタイは、いつもより急な角度で締められていた。
彼の手には、一通の封筒。
『辞職願』。
「……先生、正気なの?」
真菜が朝食の箸を止め、修がタブレットで「コメディアンの生存率」を検索して絶望的な顔をする。
「正気です、真菜さん。私は昨日、譲さんが風呂場で鼻歌を歌いながら石鹸で滑って転んだ際、ある真理に到達しました。『予期せぬエラーこそが、人類に最大の幸福(笑い)をもたらす』と」
佐藤先生は、眼鏡をキラーンと光らせた。
「私は、お笑いを『再履修』します。論理的に、確実に、熊本の、いや世界の全人類を爆笑させる数式を、私はこの手で証明したいのです」
「待て待て待て! 先生、お前が辞めたら、俺の番組の企画書、誰が校閲するんだよ!」
航がパジャマ姿で立ちはだかる。
「航さん。あなたの企画書は、既にそれ自体が高度な喜劇です。……私は今、本物の舞台に呼ばれているのです」
その夜、熊本市内の小さな地下ライブハウス。
佐藤先生は、センターマイクの横に「マイ・ホワイトボード」を設置した。
観客は若者数名と、心配で変装して潜り込んだ水前寺家の面々。
「……えー、本日は『期待値と笑いの相関関係』について講義――いえ、漫談をいたします。まず、こちらのグラフをご覧ください……」
十分後。
会場には、空調の音と、小穂がポップコーンを咀嚼する音だけが響いていた。
客席の若者はスマホをいじり、一人は寝ている。
佐藤先生の手は、マーカーで真っ黒に汚れ、声は微かに震えていた。
「……したがって、このボケによる期待値は……期待値は……」
「……全然面白くねえんだよ! バカ野郎!」
客席の後ろから、聞き慣れた、暑苦しい声が響いた。
航だ。変装のサングラスを投げ捨て、彼は叫んだ。
「お前の話は、難しすぎるんだよ! でもな、佐藤! お前が今、その真っ黒な手で、必死に『笑わせよう』としてるその無様な姿……。俺には、世界で一番面白いぜ!」
譲が、ステージの袖からギターをかき鳴らした。
ジャカジャカと、佐藤先生の「沈黙」を埋めるような、三流の、けれど温かいブルース。
「先生! ネタが滑っても、この曲があれば大丈夫だ! さあ、最後の一言を言えよ! 先生が信じる、最高のオチを!」
佐藤先生は、ホワイトボードをじっと見つめた。
そこには、誰にも理解されない複雑な数式が並んでいる。
彼は、ゆっくりとマーカーを置き、深々と頭を下げた。
「……失礼いたしました。本日の結論です。『家族の前で滑ることは、物理学的に見て、最も温かい摩擦熱を発生させる』。……以上です」
パラパラと、小さな拍手が起きた。
それは、客席の若者からではなく、涙を溜めた真菜と、誇らしげな修と、大笑いしている航、そしてギターを弾く譲からのものだった。
翌朝。
佐藤先生は、いつものようにネクタイを締め直し、いつものように大学(あるいは仕事先)へ向かおうとした。
玄関には、航によって「不合格」のスタンプが押された辞職願が置かれていた。
「……先生、次のライブのネタ、僕が添削してあげるよ」
修が隣を歩きながら言った。
「お断りします、修くん。笑いは、解析不能なバグであってこそ価値があるのですから」
佐藤先生の横顔は、昨日よりも少しだけ「非論理的」で、晴れやかだった。
水前寺家のリビングには、今日もまた、誰かが滑って誰かが笑う、最高の不協和音が響いていた。




