第20話:『熊本の鐘、再履修の誓い』
『熊本の鐘、再履修の誓い』
そのチャペルは、阿蘇の裾野に抱かれた、天に届きそうなほど高い天井を持っていた。
譲叔父さんと由佳さんは、震える手で誓いの指輪を交換しようとしていた。
「待てーーーい!」
重厚な扉が、プロの放送作家でも躊躇うような勢いで開け放たれた。
そこに立っていたのは、息を切らし、ネクタイを頭に巻きそうなくらい乱れた姿の航だった。
「譲! 結婚なんて認めんぞ! 幸せなんて、一瞬で消える幻だ。お前を……俺みたいに、あんな思いをさせたくないんだ!」
航の声は、聖堂の壁に反響し、パイプオルガンの音色をかき消した。
真菜と小穂、それに修が慌てて航の服を引っ張る。
「パパ、やめて! 叔父さんは一生懸命準備してたんだよ!」
「そうだよ、パパ。佐藤先生だって、今日の式の確率は100%だって言ってたのに!」
祭壇の前で、譲がゆっくりと振り返った。
彼は怒っていなかった。ただ、10年前に自分を置いて逝ってしまった義姉(航の妻)の写真を胸ポケットに入れ、悲しそうに笑っていた。
「兄貴……。俺、知ってるよ。兄貴が、義姉さんにウェディングドレスを見せてあげられなかったことをずっと悔やんでること。……だから俺、由佳さんと相談して決めたんだ」
譲は、真っ白なドレスを纏った由佳の手を引いて、航の元へ歩み寄った。
「今日は、俺たちの式じゃない。兄貴が、義姉さんへの想いをやり直すための式なんだよ」
由佳が、そっと航の腕に自分の手を添えた。
「航さん。私のお父さんは、私が小さい頃に亡くなりました。……だから、お願いです。私の父として、一緒に歩いてくれませんか? 航さんの奥様が、空から見てくれているこの道を」
航の目から、大粒の涙が溢れ出した。
アナウンサーとして、どんな悲報も、どんな朗報も、冷静に伝えてきた。でも、今、自分の心臓が叫んでいる言葉だけは、どうしてもマイクに乗せられないほど、熱くて、形にならない。
「……バカ野郎。お前ら、三流の演出家かよ……」
航は鼻を啜り、佐藤先生から差し出されたシルクのハンカチで顔を拭った。
佐藤先生は、チャペルの隅で小型のホワイトボードを掲げていた。
『後悔:0% 祝福:無限大。……航さん、これは再履修ではありません。合格後の、特別講習です』
航は、由佳の腕をしっかりと支え、一歩、一歩、バージンロードを歩き始めた。
譲が奏でるギターの旋律が、パイプオルガンと重なり、チャペルを満たしていく。
真菜が、小穂の手を握りしめながら、空を見上げた。
そこには、10年前のあの夏の日よりも、ずっと透き通った青空が広がっていた。
鐘の音が響く。
それは、失われた過去を弔う音ではなく、新しく始まる家族の、騒がしくて愛おしい日常を祝福する音だった。
「おめでとう、譲。おめでとう、由佳ちゃん」
航の声は、これまでで一番、美しく響いていた。




