第2話:家庭訪問は、宣戦布告と見なす
『家庭訪問は、宣戦布告と見なす』
学校というのは、僕にとって唯一の「聖域」だった。
少なくとも、あの地獄のリビングから解放され、チャイムという厳格なルールに従って、整列された机に座っていられる時間は、僕の人生における貴重なセーフティゾーンだったはずだ。
だが、その聖域は、一冊の薄っぺらい冊子によって、いとも容易く蹂躙された。
「……修くん。これ、おうちに帰ったら、必ずお父さんに読んでおいてもらってね」
担任の山岸先生が、腫れ物に触れるような手つきで僕の連絡帳を差し出してきた。
そこには、震える筆跡でこう記されていた。
『修くんの最近の様子について、少々お伺いしたいことがございます。つきましては、明日の放課後、お時間をいただけないでしょうか』
終わった、と思った。
原因は分かっている。昨日の図工の時間、僕は「将来の夢」というテーマで、粘土を捏ねて『強固な防音壁を完備したシェルター』を制作した。窓は一つもない。中には一週間分の保存食と、一人の人間が静かに眠れるベッドがあるだけだ。
先生に「誰と住むの?」と聞かれ、「一人です。誰も死なないし、誰も叫ばないから」と答えたのが、決定打だったのだろう。
本来なら、こんな不穏な招待状は、誰にも見せずに焼却処分したいところだ。
しかし、我が家には「文字」に対して異常なまでの嗅覚を持つプロが揃っている。
「……ん? 修、そのランドセルの右ポケット。紙が一枚、不自然に折れ曲がっているな。隠匿物か?」
夕食時、鋭い眼光で僕を射抜いたのは、佐藤先生だった。
反射的に身を強張らせた僕から、彼は電光石火の早業で連絡帳を抜き取った。
「ほう、山岸先生からか。……家庭訪問の要請だ」
「な、何だって!?」
ビールを飲んでいた父さんが、ニュース速報ばりの勢いで立ち上がった。
「修、パパに読みなさい! いや、パパが読む! 『家庭での様子について』……だと?」
父さんの顔が、みるみるうちに報道特番のキャスターのような、冷徹で深刻な表情に変わる。
「これは一大事だ。修、お前、学校で僕が夜中に母さんの写真を抱いて号泣しながら発声練習してるって言ったのか!? イメージダウンだ! スポンサーが降りる!」
「パパ、そこじゃないだろ!」
叔父の譲が、ギターの弦を「ベンッ!」と不快な音で鳴らして割り込んできた。
「これは修のソウルが、ヘルプを出してるってことだよ。自由を求めてるんだ! 修、安心しろ。明日は俺が、革ジャンで行ってやる。教室をライブハウスに変えて、その先生に『欠落という名の愛』を叩き込んでやるよ」
「待て、譲。お前のような男が行けば、修は即座に児童相談所に保護される」
佐藤先生が冷酷に言い放つ。彼はすでにダイニングの壁にホワイトボードを設置し、マジックを走らせていた。
「山岸先生は僕の後輩だ。ここは現役教師である僕が、教育的見地から『我が家のQOLは、母の死という不可抗力を除けば概ね良好である』と論破するのが正解だ」
「いや、僕が行く! 僕は父親だ! プロのプレゼン能力で、先生を感動の渦に巻き込んでみせる!」
「俺だ! 俺が一番、姉貴のいない寂しさを音にできる!」
「私が行くべきじゃない? お母さん代わりの私が!」
いつの間にか、長女の真菜まで参戦してきた。
リビングは、瞬く間に「修の保護者決定戦」という名の泥沼の論戦と化した。
父さんは滑舌良く自らの父性愛を実況し、叔父さんは即興で『面談のブルース』を歌い始め、佐藤先生は「面談における勝算」を複雑な折れ線グラフにしていった。
彼らは、誰も気づいていない。
僕が欲しかったのは、豪華なプレゼンでも、魂の叫びでもなく、ただ「明日、先生が来るからね」と笑って、僕の代わりに掃除機をかけてくれる、普通の母親の姿だった。
「……もういい、勝手にしてよ」
僕は、冷え切った味噌汁を残して部屋に逃げ込んだ。
翌日。
放課後の教室で、僕は一人、山岸先生と向き合っていた。
先生は、予備のパイプ椅子を二つ、用意していた。
「……修くん、大丈夫よ。今日は、お家の人に勇気を出して来てもらったから」
先生が優しく微笑んだ瞬間、教室のドアが「バーン!」という効果音と共に開いた。
「お待たせしました、視聴者の皆様! 修の父、水前寺航、ただいま到着いたしました!」
スーツを完璧に着こなした父さんが、まるで見えないカメラに向かって挨拶するように入ってくる。
「Hey, 先生! 修のソウルを、今日ここでセッションしようぜ!」
その後ろから、サングラス姿でポータブルアンプを担いだ叔父さんが続く。
「失礼。学内規定に基づき、不審者の乱入を阻止しつつ同行した、水前寺家の教育顧問だ」
最後尾には、自分の勤務先でもないのに三つ揃えのスーツを着た佐藤先生が、腕を組んで仁王立ちしていた。
山岸先生の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。
彼女が手に持っていた、「母子家庭・父子家庭への支援ネットワーク」と書かれたパンフレットが、力なく床に落ちた。
「あの……お母様は……?」
山岸先生が震える声で尋ねた瞬間、父さんの完璧な「キャスター・スマイル」が一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、崩れた。
父さんは、僕のランドセルの横でブラブラしている、母さんが生前つけてくれたボロボロの反射板キーホルダーに目をやった。
「……母は、欠席です。永久に。ですから、我々三人が、三倍の熱量で修を愛しています。……それが何か問題でも?」
父さんの声は、放送事故のように震えていた。
僕は、自分の顔を両手で覆った。
市役所の皆さん、早く来てください。
僕の家族には、再履修どころか、欠けた椅子を埋めるための、もっと別の何かが必要なんです。
教室の窓から差し込む夕日は、僕たちの歪な影を、あまりにも長く引き延ばしていた。




