第19話:『五木の子守唄、届かぬ恋の残響』
『五木の子守唄、届かぬ恋の残響』
五木村の夜は、深い。
深い淵を抱く川の音と、鳥の鳴き声だけが、僕たちの居場所をこの世から切り離しているようだった。
譲叔父さんは、朝からずっと、壊れたラジオのように落ち着かなかった。
ジャケットのポケットには、村の売店で買った「鹿革のストラップ」が隠されている。由佳さんへのプレゼントだ。
「修、いいか。この『特別収録』が終わった瞬間、この吊り橋の真ん中で、俺は愛を叫ぶ。由佳さんも、この絶景に心が開いているはずだ」
「叔父さん、由佳さん、さっきから台本の読み合わせでそれどころじゃないよ」
僕の忠告は、恋という名の猛毒に冒された男の耳には届かなかった。
さらに最悪なことが起きた。
ゲストとして登場した若手実力派俳優の伊集院が、収録後、爽やかな笑顔で由佳さんを誘ったのだ。
「由佳さん、この村の郷土料理が美味しい店を知ってるんだ。打ち合わせを兼ねて、行かない?」
由佳さんは、疲れの見える顔で「あ、いいですね。ぜひ」と答えた。
その瞬間、譲叔父さんの顔から、色が消えた。
「……打ち合わせ? 郷土料理? ……終わった。すべてが終わった。伊集院……あいつ、俺が持っていない『スマートさ』と『地位』を全部持っていやがる」
夕食時、譲叔父さんは自暴自棄になって村の地酒を煽った。
「佐藤先生、聞いてくれよ! 結局、世界は不条理なんだ。どれだけ本気で想っても、一流の男がさっと手を差し伸べれば、三流の俺なんて背景の杉の木と同じなんだよ!」
佐藤先生は、猪口を置いて静かにホワイトボード(携帯用の小型版)を取り出した。
「譲さん。五木村の地形は、数万年の侵食によって作られました。伊集院氏の誘いが『風』だとするなら、あなたの想いは『水』です。風は一瞬で通り過ぎますが、水は岩を削り、深い淵を作ります。……あなたは、淵になればいい」
深夜。収録の予備機材を片付けていた由佳さんの元に、ふらふらの譲叔父さんが現れた。
場所は、あの深い谷に架かる吊り橋。
「……由佳さん。伊集院と、楽しくやってきたのかよ」
「譲さん? お酒飲んでるんですか? ……伊集院さんとは、明日の撮影順序の話をしていただけです。それより、私、もう疲れちゃって……」
由佳さんが、橋の欄干に力なくもたれかかった。
「この仕事、プレッシャーなんです。航さんの足を引っ張っちゃいけないって思うと、夜も眠れなくて……。私、恋愛なんてしてる余裕、ないんです」
譲叔父さんは、一瞬だけ固まった。
そして、自分が「由佳さんにどう思われるか」ばかりを気にしていた傲慢さに、ようやく気づいたようだった。
彼は懐から、あの不細工な鹿革のストラップを取り出した。
「……由佳さん。これ、あげるよ」
「……え?」
「告白しようと思ってた。でも、やめた。今のあんたに必要なのは、男の告白じゃなくて、ゆっくり寝ることだろ」
譲叔父さんは、不器用に彼女の肩を叩いた。
「明日、あんたがカメラの前で笑えるように、俺、一晩中、この橋の上で悪霊退散の歌でも歌っててやるよ。……三流なりに、あんたの『壁』になってやる」
由佳さんは、その安っぽいストラップを握りしめ、ふっと小さく笑った。
「……譲さんって、本当に、滑稽で、優しいんですね」
翌朝。
「おはようくまもと」五木村スペシャル。
カメラの前に立つ由佳さんの顔は、驚くほど晴れやかだった。
横でマイクを持つ航が、モニターに映る息子の、ひどい二日酔いの顔を見て、小さく頷いた。
「……由佳君、いい顔だ。昨夜、いい『守護霊』がついたみたいだね」
「はい、航さん。最高にうるさい守護霊でした」
収録を見守る真菜姉ちゃんと僕は、橋の向こうで震えている叔父さんを見つめていた。
恋は実らなかった。告白もできなかった。
でも、五木村の深い淵のように、譲叔父さんの想いは、静かに、けれど確かにその場所に刻まれていた。




