第18話:『二十六歳の墜落、あるいは無能の聖域』
『二十六歳の墜落、あるいは無能の聖域』
二十六歳。それは、自分が「何でもできる」と錯覚し、同時に「何者でもない」と怯える、不安定な季節だ。
譲は、その境界線の上を、目隠しで全力疾走していた。
「譲叔父さん、この曲の編曲、手伝って!」「譲、明日の番組のBGM、急ぎで頼めるか!」「おじさん、これ直して!」
リビングには、彼を求める声が絶え間なく降り注ぐ。
「ああ、任せとけ。俺は今、絶好調なんだ」
譲は、自分でも驚くほど滑らかな「嘘」を吐き続けていた。手帳は真っ黒。睡眠時間は三時間。それでも、必要とされることが、彼の唯一の酸素だった。
運命のライブ当日。
会場の最前列には、業界で「耳の神」と恐れられる評論家が座っていた。
譲がギターを持った瞬間、指先の感覚が、ふっと消えた。
ジャリ、という嫌な音。
チューニングがずれているわけではない。自分の心が、音を拒絶していた。
完璧に弾かなければ。家族の期待を、クライアントの信頼を、裏切るわけにはいかない。
――その「正しさ」が、指先を金縛りにした。
結果は惨敗だった。
評論家は、一曲目が終わる前に席を立った。
逃げるように帰宅した譲を待っていたのは、更なる「期待」という名の重圧だった。
「おかえり譲! ちょうど良かった、ここの構成で悩んでて……」
航の声が、爆音のように耳に響く。
「叔父さん、パソコンの調子が……」
「おじさん……」
「……やめてくれ」
譲の口から、掠れた声が漏れた。
「え? なんだ譲、聞こえないぞ」
「やめてくれって言ってるんだ!」
譲は、耳を塞いで叫んだ。その場に蹲り、子供のように体を丸める。
「俺は、何もできない。ギターも、仕事も、全部……偽物なんだ。もう、俺に何も頼まないでくれ。死んでしまう……息ができないんだよ!」
リビングが、一瞬で凍りついた。
航は、手に持っていた原稿を落とした。修は、叔父の震える指先から、ポタポタと血が垂れているのを見た。練習のしすぎで、指の腹が割れていたのだ。
「……譲」
航が、ゆっくりと歩み寄った。
譲は怯えたように身を縮めたが、航はその体を、壊れ物を扱うように力強く抱きしめた。
「……ごめんな。お前を、便利使いしすぎたな。お前は、俺たちの『道具』じゃないのに」
航は、譲の耳元で、かつてないほど「下手くそな」声で囁いた。
「いいか、譲。明日から仕事は全部キャンセルだ。お前はまた、昼間からパンツ一丁で、適当な鼻歌を歌う『三流の居候』に戻るんだ。それが、この家の唯一のルールだ」
譲の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……でも、それじゃ、何にもなれない……俺、また、何者でもなくなる……」
「いいんだよ。何者でもないお前を、俺たちは二十六年間、愛してきたんだから」
佐藤先生が、静かにホワイトボードへ向かった。
彼はいつもなら数式を書く場所に、ただ大きな丸を描いた。
『水前寺譲、生存確認。……現在のステータス:完全な、愛すべき無能』
修が、譲の血が滲んだ指先に、そっと絆創膏を貼った。
「……叔父さん、また変な曲、聴かせてよ。あのかっこ悪い、失敗ばっかりしてた頃の曲」
譲は、航の胸の中で、声を上げて泣き続けた。
窓の外では、熊本の夜が、彼らの「無能」を祝福するように、優しく更けていった。




