表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ニュースキャスターの父、ロッカーの叔父、教師の居候。この家、まともな大人が不在です』  作者: 水前寺鯉太郎
シーズン2

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/24

第17話:ホワイトボードの汚れ、過去の幻影

『ホワイトボードの汚れ、過去の幻影』

 その女性、恵美さんは、熊本市電の電停に立つだけで、そこだけ時間が止まったような、浮世離れした美しさを纏っていた。

 10年前。佐藤先生が、まだ「論理」という鎧を着る前。

 学問に情熱を燃やし、若さゆえの軽快な冗談で周囲を笑わせていた頃の、彼の光。

「……久しぶりね、健二くん」

 恵美さんの声に、佐藤先生の肩が、微かに、けれど決定的に震えた。

 

 それからの数日間、佐藤先生は「研究」と称して家を空けるようになった。

 帰ってきた彼のネクタイは緩み、眼鏡の奥の瞳は、泥のように濁っている。

「……先生、その格好、どうしたの?」

 修が尋ねても、彼はいつもの「統計学的な説明」を一切しない。ただ、「昔を思い出していただけです」と、幽霊のような声で笑うだけだった。

「……最悪だ」

 航が、局のスタジオの片隅で、修から送られてきた「偵察写真」を見て呟いた。

 写真の中の佐藤先生は、恵美さんの前で、見たこともないような「陽気な道化」を演じていた。無理に作った笑顔。ホワイトボードを持たず、手持ち無沙汰に泳ぐ指先。

「あいつ、10年前の自分を演じようとしてるんだ。彼女が愛した、あの頃の『面白い健二くん』を。……バカ野郎。今のあいつの面白さは、そんな安っぽいもんじゃないのに」

 決着の日は、雨だった。

 思い出の喫茶店で、恵美さんが不満げに口を尖らせた。

「ねえ、健二くん。もっとあの頃みたいに、世界を笑い飛ばすような話をしてよ。最近のあなたは、なんだか小難しくて、いつも何かに怯えてるみたい」

 佐藤先生は、注文した珈琲が冷めるのを、ただじっと見つめていた。

「……恵美さん。私は、あの日、君に去られた日から、世界を笑い飛ばす術を失いました。代わりに手に入れたのは、世界を『再履修』するための、不器用な理屈だけです」

「そんなの、私、興味ない。私が好きだったのは……」

「わかっています。君が好きなのは、今の私ではない。君の記憶の中にだけ住んでいる、10年前の死体だ」

 佐藤先生が、ゆっくりと眼鏡を直した。その瞳には、いつもの冷徹な「観測者」の光が戻っていた。

「残念ながら、今の私には、この家の……水前寺家の連中がつけた、消えない汚れが染み付いています。ホワイトボードを叩き、騒音の中でしか、私は私でいられないのです」

 喫茶店の外に、びしょ濡れの航が立っていた。

 彼は店内に踏み込み、テーブルの上に、一枚の「再履修ノート」を叩きつけた。

「……佐藤! 帰るぞ。夕飯はカレーだ。お前の嫌いな、ジャガイモが溶け残った三流のカレーだ!」

 航の声は、店内に響き渡った。周囲の客が眉を顰めるが、航は構わない。

「この女が何を言おうと知るか! 俺たちは、今の、理屈っぽくて、偏屈で、ホワイトボードがないと死んじまうお前を、100回だって『合格』させてやる!」

 恵美さんは、何も言わずに店を出て行った。

 

 帰りのタクシーの中。

 航と佐藤先生は、一言も交わさなかった。

 ただ、窓の外を流れる熊本の夜景を、二人でじっと見つめていた。

 家に着くと、真菜と修、そして小穂が、まるで何事もなかったかのように、リビングでトランプをしていた。

「……お帰り、先生。はい、ホワイトボード。乾拭きしておいたよ」

 修が差し出したボードを受け取り、佐藤先生は、深く、深く、溜息をついた。

 

 彼はマーカーを手に取ると、大きく書き殴った。

『過去の自分という変数は、現在の定数によって上書きされた。……本日の夕食、カレーの満足度予測:計測不能なほど、高い』

 その文字は、少しだけ震えていた。

 佐藤先生は、眼鏡を外して顔を覆った。

 航が、黙って彼の肩を叩いた。

 

 10年前の恋。それは、ようやく今、この騒がしいリビングの空気の中で、成仏したのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ