第17話:ホワイトボードの汚れ、過去の幻影
『ホワイトボードの汚れ、過去の幻影』
その女性、恵美さんは、熊本市電の電停に立つだけで、そこだけ時間が止まったような、浮世離れした美しさを纏っていた。
10年前。佐藤先生が、まだ「論理」という鎧を着る前。
学問に情熱を燃やし、若さゆえの軽快な冗談で周囲を笑わせていた頃の、彼の光。
「……久しぶりね、健二くん」
恵美さんの声に、佐藤先生の肩が、微かに、けれど決定的に震えた。
それからの数日間、佐藤先生は「研究」と称して家を空けるようになった。
帰ってきた彼のネクタイは緩み、眼鏡の奥の瞳は、泥のように濁っている。
「……先生、その格好、どうしたの?」
修が尋ねても、彼はいつもの「統計学的な説明」を一切しない。ただ、「昔を思い出していただけです」と、幽霊のような声で笑うだけだった。
「……最悪だ」
航が、局のスタジオの片隅で、修から送られてきた「偵察写真」を見て呟いた。
写真の中の佐藤先生は、恵美さんの前で、見たこともないような「陽気な道化」を演じていた。無理に作った笑顔。ホワイトボードを持たず、手持ち無沙汰に泳ぐ指先。
「あいつ、10年前の自分を演じようとしてるんだ。彼女が愛した、あの頃の『面白い健二くん』を。……バカ野郎。今のあいつの面白さは、そんな安っぽいもんじゃないのに」
決着の日は、雨だった。
思い出の喫茶店で、恵美さんが不満げに口を尖らせた。
「ねえ、健二くん。もっとあの頃みたいに、世界を笑い飛ばすような話をしてよ。最近のあなたは、なんだか小難しくて、いつも何かに怯えてるみたい」
佐藤先生は、注文した珈琲が冷めるのを、ただじっと見つめていた。
「……恵美さん。私は、あの日、君に去られた日から、世界を笑い飛ばす術を失いました。代わりに手に入れたのは、世界を『再履修』するための、不器用な理屈だけです」
「そんなの、私、興味ない。私が好きだったのは……」
「わかっています。君が好きなのは、今の私ではない。君の記憶の中にだけ住んでいる、10年前の死体だ」
佐藤先生が、ゆっくりと眼鏡を直した。その瞳には、いつもの冷徹な「観測者」の光が戻っていた。
「残念ながら、今の私には、この家の……水前寺家の連中がつけた、消えない汚れが染み付いています。ホワイトボードを叩き、騒音の中でしか、私は私でいられないのです」
喫茶店の外に、びしょ濡れの航が立っていた。
彼は店内に踏み込み、テーブルの上に、一枚の「再履修ノート」を叩きつけた。
「……佐藤! 帰るぞ。夕飯はカレーだ。お前の嫌いな、ジャガイモが溶け残った三流のカレーだ!」
航の声は、店内に響き渡った。周囲の客が眉を顰めるが、航は構わない。
「この女が何を言おうと知るか! 俺たちは、今の、理屈っぽくて、偏屈で、ホワイトボードがないと死んじまうお前を、100回だって『合格』させてやる!」
恵美さんは、何も言わずに店を出て行った。
帰りのタクシーの中。
航と佐藤先生は、一言も交わさなかった。
ただ、窓の外を流れる熊本の夜景を、二人でじっと見つめていた。
家に着くと、真菜と修、そして小穂が、まるで何事もなかったかのように、リビングでトランプをしていた。
「……お帰り、先生。はい、ホワイトボード。乾拭きしておいたよ」
修が差し出したボードを受け取り、佐藤先生は、深く、深く、溜息をついた。
彼はマーカーを手に取ると、大きく書き殴った。
『過去の自分という変数は、現在の定数によって上書きされた。……本日の夕食、カレーの満足度予測:計測不能なほど、高い』
その文字は、少しだけ震えていた。
佐藤先生は、眼鏡を外して顔を覆った。
航が、黙って彼の肩を叩いた。
10年前の恋。それは、ようやく今、この騒がしいリビングの空気の中で、成仏したのかもしれない。




