第16話:シェルター、決壊。 ―修の初恋―
『シェルター、決壊。 ―修の初恋―』
その日の午後、水前寺家のリビングには、かつてないほど「清潔な春」の匂いが漂っていた。
航と一緒に「おはくま」の司会を務める渡辺由佳さんが連れてきた、姪のゆみちゃん。
彼女が座っていたソファのクッションには、微かに甘い石鹸のような香りが残っている。
「……修? どうしたんだ、そんなに静かにして。いつもの『再履修』っていう鋭いツッコミはどうした?」
航が、由佳さんたちを見送った後、ニヤニヤしながら僕の顔を覗き込んできた。
僕は答えなかった。答えられなかった。
心臓が、まるで中古のエンジンみたいに、不規則なリズムで胸の壁を叩いている。解析不能。論理的解決、不可能。
「こりゃ重症ね」
真菜姉ちゃんが、僕の顔を見て呆れたように笑った。
「あの鉄面皮の修が、ゆみちゃんが帰った瞬間に、魂抜かれたみたいになってる。……あーあ、これが本当の『恋の病』ってやつ?」
その日から、水前寺家は「修の気を紛らわせる作戦」の戦場と化した。
航は「男はスポーツで汗を流せ!」と、僕を無理やりバッティングセンターに連れて行き、一球も当たらない僕の横で、自分だけが快音を響かせて空回りした。
譲叔父さんは「失恋にはブルースだ」と、深夜まで爆音でギターを鳴らし、近所から苦情を言われた。
佐藤先生に至っては、ホワイトボードに『恋愛感情におけるドーパミン分泌の減衰曲線』を書き殴り、「あと十四日もすれば、生理学的に落ち着きます」と断言した。
全部、違う。
そんな理屈でも、運動でも、音楽でもないんだ。
僕が欲しいのは、由佳さんの車が角を曲がる時に、彼女が一度だけ振り返って振ってくれた、あの小さな手のひらの残像だけなんだ。
「……うるさいよ。みんな、放っておいてよ」
僕は、自分の部屋に逃げ込んだ。
机の下に作った、僕の「シェルター」。
段ボールとクッションで固めた、この世で一番安全な、僕だけの独立国家。
いつもなら、ここに入ればどんな騒音も届かないはずだった。
でも、今日は違った。
狭い。
ここには、僕一人しか入れない。
さっきまで、あんなに「誰かと一緒にいたい」と願っていた自分が、この孤独な箱の中に収まっていることが、たまらなく惨めで、苦しかった。
ふと、シェルターの隅に、小さな包み紙が落ちているのに気づいた。
ゆみちゃんが、僕の部屋を見学した時に「これ、きれいだよ」と言って置いていった、金平糖。
僕はそれを一つ、口に含んだ。
甘い。
甘くて、痛い。
飲み込もうとした喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
コンコン。
ドアがノックされた。
「……修。入るぞ」
航だった。彼はいつになく静かな足取りで、僕のシェルターの横に座り込んだ。
「……父さんはな、お前の母親に初めて会った時、滑舌が全部めちゃくちゃになったんだ」
僕は膝を抱えたまま、何も言わなかった。
「プロとして失格だよな。でも、それでいいんだ。……言葉にできないくらい誰かを好きになるのは、お前が『人間』として合格だって証拠だ。再履修なんてしなくていい」
父さんの大きな手が、シェルターの段ボール越しに、僕の背中をポン、と叩いた。
「……明日、由佳さんに聞いてやるよ。ゆみちゃん、お前のこと『かっこいいお兄ちゃんだった』って言ってたぞ」
「……嘘だよ。絶対、パパの嘘だ」
「ああ、嘘かもしれないな。でも、願うのは自由だろ?」
父さんが出て行った後、僕はシェルターから這い出した。
窓の外には、熊本の夜空が広がっている。
きっと、ゆみちゃんもこの月を見ているかもしれない。
そんな、かつての僕なら鼻で笑っていたような感傷が、今の僕のすべてだった。
僕は、机の上に置いていた「再履修ノート」を閉じた。
この感情だけは、採点できない。
僕はただ、頬に伝わる熱い雫を、冷たい指先でそっと拭った。




