第15話:『ビジネス・スーツの檻、沈黙の食卓』
『ビジネス・スーツの檻、沈黙の食卓』
午後二時。
水前寺家のリビングには、残酷なほどの陽光が差し込んでいた。
かつては、譲叔父さんの下手なギターの試行錯誤や、佐藤先生がホワイトボードを叩く乾いた音が、この光の中に舞う埃と一緒に踊っていた。
今は、ただ、時計の秒針が時を刻む音だけが、耳の奥に突き刺さる。
「……お姉ちゃん、おじさんたち、今日も遅いの?」
小穂が、床に転がったままの、弦の切れた譲のギターを見つめて呟いた。
「仕事なんだから、仕方ないでしょ。成功したんだから、お祝いしなきゃ」
真菜は、自分に言い聞かせるように答えた。
キッチンには、彼らがいた頃には決してなかった「丁寧な掃除」の跡がある。吸い殻一つ落ちていない灰皿が、かえってこの家の「死」を強調していた。
一方、中心街にある広告代理店の一室。
そこには、最新のスピーカーと、冷たいデスク、そして「水前寺譲」というネームプレートがあった。
譲は、仕立てのいいジャケットを羽織り、眉間に皺を寄せてモニターを見つめている。
「水前寺さん、次の修正ですが……もっと『ターゲット層の可処分所得』を意識した、アッパーな音色にしてください。前回の『野良猫の叫び』みたいなのは、もういりませんから」
若いディレクターの言葉に、譲は無言で頷いた。
その横で、なぜか「戦略特別顧問」として椅子に座らされている佐藤先生が、震える手で眼鏡を直した。
「……しかし、それでは音楽の持つ『不協和音の美学』が損なわれる。統計学的にも、人は完璧すぎる調和には飽和を……」
「佐藤先生、いいから」
譲の声は、低く、冷たかった。
「ここは会議室だ。リビングじゃない。……言われた通りにやろう」
佐藤先生は、口を噤んだ。彼が手に持っていたマーカーは、一度もホワイトボード――いや、ここにある無機質な電子黒板に触れることはなかった。
夜、十時。
二人が帰宅した時、リビングには冷めた夕食が並んでいた。
真菜と小穂は、ソファで折り重なるように眠っている。
譲はネクタイを乱暴に緩め、ソファの端に腰を下ろした。
「……譲さん」
佐藤先生が、暗闇の中で囁いた。
「私たちは、何を『再履修』しているのでしょうね。社会という名の教室は、あまりにも息苦しい」
譲は答えなかった。ただ、壁に立てかけられた自分の古いギターを、暗闇の中でじっと見つめていた。
ふと、小穂が寝言で「……おじさん、ニャーって言って」と呟いた。
先日の、あの惨敗したキャットフードのCMの時の、佐藤先生の真似だ。
譲の喉の奥が、熱くなった。
あの日、あんなに惨めで、あんなに恥ずかしかったあの日の方が、今のこの「成功」よりも、ずっと、ずっと……。
譲は、鳴らすことの許されないギターの弦に、そっと指を触れた。
その指先は、慣れないデスクワークで、少しだけ柔らかくなっていた。
真菜が、薄らと目を開けた。
「……お帰り、叔父さん」
「……ああ。今帰った」
そのやり取りだけが、唯一の、かつての水前寺家の残響だった。
窓の外では、熊本の街の灯りが、彼らの「失った自由」を嘲笑うように輝いていた。




