第13話:『カリフォルニアの夢、熊本の雨』
『カリフォルニアの夢、熊本の雨』
そのハガキは、水前寺家のリビングに置かれた使い込まれた食卓の上で、まるで不発弾のように鎮座していた。
『ビーチ・ボーイズ来日公演 ペア招待状』。
ラジオのクイズ番組に当選したという真菜の叫び声から一時間。家の中には、かつてないほど濃密で、それでいてひどく刺々しい沈黙が流れていた。
「……譲叔父さんと、行くことに決めたから」
真菜が、精一杯の「理屈」を声に乗せた。
「叔父さん、ミュージシャンだし。本場のハーモニーを聴くのは、きっと仕事のプラスになると思うし」
譲は、ソファで大切そうに愛用のフェンダーを磨いていた手を止め、わずかに眉を動かした。
「……まあ、勉強にはなるな。ブライアン・ウィルソンのコード進行を、生で拝める機会なんてそうそうない」
譲の声は淡々としていたが、その瞳には、隠しきれない高揚が宿っていた。
その横で、航は、昨日の残りの冷めた味噌汁を啜っていた。
「そうか。……譲なら、いい刺激になるだろうな」
父の声は、驚くほど低く、穏やかだった。
「父さんはスポーツ担当だしな。海の歌より、今はグラウンドの土の匂いの方がお似合いだ。気にするな」
航はそう言って、立ち上がった。
その時、真菜は見てしまった。
父の背中が、いつもよりわずかに丸まり、パジャマの袖から覗く手首が、力なく垂れ下がっているのを。
キッチンへ向かう父の足音が、フローリングを擦るように重い。
航は、キッチンの隅にある、埃を被った古いレコードプレーヤーに目を止めた。
そこには、真菜が生まれるずっと前からある、擦り切れた『ペット・サウンズ』のジャケットが置かれている。
父が、それを指先でそっとなぞる。
まるで、もう二度と触れることのできない、遠い日の恋人の肌を愛しむように。
真菜は、胸の奥を鋭利なナイフで抉られたような感覚に襲われた。
父さんは、この日のために生きていたのではないか。
熊本の地方局で、慣れないニュース番組の司会に追われ、理不尽な上司に頭を下げ、崩壊しかかった家族を繋ぎ止めるために空回りし続けてきた、その日々の「ご褒美」が、このハガキだったはずだ。
「……あ、やっぱり」
真菜が声を上げた瞬間、譲が不意に立ち上がり、ホワイトボードを抱えて現れた佐藤先生を制した。
「真菜。悪いが、俺はキャンセルだ」
「えっ……?」
「さっき思い出した。その日は、どうしても外せないライブのオーディションが入ってた。……三流ミュージシャンは、本物を聴く前に、自分の飯の種を稼がなきゃならないんだよ」
譲は嘘をついた。真菜にはわかった。叔父のスケジュール帳には、その日は大きな「×」印と共に『伝説を見逃すな』と殴り書きされていたのを。
譲は、部屋の隅で凍りついていた航の肩を、ポンと叩いた。
「兄貴。代わりに行ってやってくれ。あんたのあの、うるさい鼻歌の正体を、一度生で確認してこいよ」
航は、振り返らなかった。
ただ、キッチンの蛇口から出る水の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……真菜。父さん、仕事があるんだ」
「お父さん」
真菜は、父の背中に向かって歩み寄った。
「仕事、休めないの? 一回くらい、わがまま言ってよ。私……お父さんと行きたいの」
航の肩が、微かに震えた。
彼はゆっくりと振り返った。その瞳は赤く、鼻の頭を真っ赤にしている。
「……お前、いいのか。譲の方が、会話も弾むだろうに」
「お父さんの、あの下手な解説を聞きながらじゃないと、私、ビーチ・ボーイズって感じがしないの」
真菜が笑うと、航は子供のように顔をクシャクシャにして、タオルで乱暴に顔を拭った。
「よし……。じゃあ、父さんが最高のガイドをしてやる。あの曲ができた背景から、ブライアンの苦悩まで、一晩中語ってやるからな!」
いつもの、暑苦しい、滑舌だけが良い航の声が戻ってきた。
その夜、修はリビングの片隅で、古いアルバムを広げていた。
そこには、まだ若く、日焼けした航と、微笑む母が、海辺で肩を並べている写真があった。
背景には、文字が掠れたカセットテープ。『Beach Boys Best』。
「……よかったね、お父さん」
修の独り言は、誰にも聞こえなかった。
窓の外では、雨が上がったばかりの熊本の夜空に、一筋の月光が、カリフォルニアの海岸線のように白く伸びていた。




