第12話『道化師たちの聖歌(キャットフード・ブルース)』
『道化師たちの聖歌』
広告代理店の第十七会議室。
そこは、クリエイティビティという名の「数字」が支配する、酸素の薄い実験室のようだった。
長机の向こう側に並ぶのは、仕立ての良いスーツを纏った三人の男たち。彼らの無表情な眼鏡の奥で、秒針の音だけが「無能」を刻んでいる。
「……では、プレゼンを始めさせていただきます。楽曲制作、水前寺譲。そして、コンセプト・コンサルタント、佐藤です」
佐藤先生の声が、いつもより半トーン高い。
ホワイトボードは、局から没収されたはずの例の私物だ。彼はその白い板に、数学の証明問題のような図解を書き殴り始めた。
「今回のキャットフードの歌詞は、既存の『可愛い』という記号を解体することから始めました。猫の咀嚼音における周波数 f と、人間の母性本能 M の相関関係を……」
佐藤先生の眼鏡が、部屋のLEDライトを不吉に反射する。彼は、彼なりに「コメディ」を分析していた。笑いとは、緊張の緩和である。彼はわざと、死ぬほど真面目な顔で、猫の鳴き声を「哲学的な実存の叫び」としてプレゼンし、そこからダンスに繋げるという、彼にとっての最高傑作を披露しようとしていた。
「ニャ。ニャア……。これこそが、資本主義社会における、唯一の無償の愛なのです」
佐藤先生が、細い体を不器用にくねらせ、猫のポーズを取る。
会議室に、真空のような沈黙が落ちた。
横でギターを抱える譲の指が、震えていた。
彼は知っていた。佐藤先生が、この日のために徹夜で「笑いの方程式」を研究していたことを。譲の作る、少し切なすぎるメロディを「これでは売れないが、これこそが真実だ」と認め、それを守るために、自分が道化になろうと決めたことを。
「……音楽、お願いします」
譲の声は、掠れていた。
ジャカジャカと、軽快なギターの音が響く。クライアントの要望通りの、明るいポップス。
しかし、歌詞は佐藤先生と二人で練り上げた、あまりにも重すぎる「猫への讃歌」だった。
『お前が残した、カサカサのドライフードの匂い。
あの日、安物しか買えなかった僕を、お前は一度も責めなかったね』
「……ちょっと、止めてください」
代理店の一人が、冷ややかに言い放った。
「コメディタッチ、と言いましたよね? これは……何ですか。説教? それとも、ただの素人の感傷ですか」
彼は手元の高級な時計をチラリと見て、鼻で笑った。
「佐藤さんでしたか。あなたのダンス、あれは……『顰蹙』という言葉以外で見つかりません。クライアントは猫を売りたいんです。あなたの哲学や、水前寺さんの過去のトラウマを売りたいんじゃない」
佐藤先生の動きが止まった。
ホワイトボードに書かれた緻密な計算式が、ただの落書きに見えた。
譲は、ギターをケースにしまうことすら忘れ、ただ頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
帰り道の熊本市電。
窓の外を流れる夕暮れは、残酷なほどに美しい。
「……佐藤先生」
譲が、隣でホワイトボードを抱えて固まっている男に声をかけた。
「……すまねえ。俺の曲が、湿っぽすぎたんだ」
佐藤先生は、前を向いたまま、小さく首を振った。
「いいえ。私の計算が、人間の感情という変数を読み違えたのです。……滑稽でしたか。私の、あのダンスは」
「……ああ。最高に、ダサかったよ。でも、」
譲は、窓に映る自分の情けない顔を見つめた。
「あんたがニャーって言った時、俺、ちょっと泣きそうになったんだ」
家に着くと、航と修がリビングで待っていた。
「お帰り! どうだった、全国ネットへの第一歩は!」
航の明るすぎる声が、今の二人には凶器だった。
二人は何も答えず、力なくソファに沈み込む。
「……最悪だったよ」
修が、キッチンからココアを運んできた。
「パパが言ってたよ。二人とも、顔に『惨敗』って書いてあるって」
「うるせえよ、修。プロの世界は、そんなに甘くねえんだ」
譲が投げやりにつぶやく。
すると、修がポケットからスマホを取り出し、テーブルに置いた。
そこから、ノイズ混じりの音が流れる。
それは、今朝、出発前に二人が居間で最終確認をしていた時の、練習風景の録音だった。
『……佐藤先生、この歌詞、重すぎないか?』
『いいえ。譲さんの悔しさが乗ったこの言葉でなければ、猫は救われません。私が……私が、なんとかします。笑いを取って、その隙に、この歌を彼らの心にねじ込みますから』
スピーカーから流れる、佐藤先生の震える、けれど固い決意の声。
そして、それに呼応するように鳴り響く、譲の魂のギター。
リビングが、一瞬、静まり返った。
「……なんだよ。かっこいいじゃん」
修が、ボソリと言った。
「テレビには出られないかもしれないけど。僕は、今までで一番いい曲だと思ったよ。……猫、喜んでるんじゃない?」
航が、二人の肩をがっしりと抱いた。
「そうだ! 再履修決定だな、二人とも! 次は『顰蹙』ではなく『喝采』を奪いに行くぞ。今夜は祝杯だ。惨敗を祝う、最高の酒を飲もう!」
佐藤先生が、眼鏡を外して目元を拭った。
譲は、修に背を向けたまま、鼻をすすった。
外では、近所の野良猫が一匹、月明かりの中で小さく鳴いた。
それは、誰にも届かなかった彼らの「聖歌」への、唯一の返信のように聞こえた。




