第43話 満月の潜入
リンドブルムの街に、
不気味なほどに大きく、
そして血のように赤い満月が昇った。
その妖しい光が、
石畳の道をまだらに照らし出し、
俺たちの緊張した面持ちを、
くっきりと浮かび上がらせる。
「…時間だ」
俺は、息を殺して呟いた。
リリアさんが解読した羊皮紙に記されていた、
『満月の夜』。
そして、密会の場所とされる『赤獅子の杯亭』の裏手にある、
今は使われていないはずの古い地下倉庫。
今夜、ここで何かが起こる。
ゴードンの、そして運送ギルドの、
隠された闇が暴かれるかもしれない、
千載一遇の好機。
「ケンタさん…ギドさん…
本当に、気をつけてくださいね」
リリアさんの声は、
月明かりの下でも分かるほど、
不安と緊張で細く震えていた。
彼女には、リュウガの隠れ家で待機し、
万が一の時にはギドさん特製の『竜呼びの笛』を吹いて
助けを呼んでもらう手筈になっている。
本当は、彼女も一緒に来たがったのだが、
あまりにも危険すぎると、俺とギドさんで必死に説得したのだ。
「ああ、大丈夫だ。
リリアさんも、何かあったらすぐに笛を吹いてくれ。
絶対に無理はするなよ」
俺は、彼女の小さな肩を力づけるように軽く叩いた。
「フン、心配するな、嬢ちゃん。
このわしがついておるんだ。
小僧一人の時よりは、百万倍マシだろうよ」
ギドさんは、ぶっきらぼうに言いながらも、
その目には、リリアさんを安心させようとする
不器用な優しさが滲んでいた。
俺とギドさんは、
リリアさんに見送られ、
息を殺して『赤獅子の杯亭』の裏手へと向かった。
酒場の喧騒を背に、
人気のない薄暗い路地を進む。
湿った石壁が、ひんやりとした空気を放っていた。
やがて、目的の古い地下倉庫の入り口が見えてきた。
木製の扉は古びており、
ところどころ腐りかけている。
だが、よく見ると、
新しい南京錠が取り付けられていた。
やはり、ここが当たりか…!
「ギドさん、あれを…」
「フン、見えとるわい。
ドワーフの鍵開けの技をなめるなよ」
ギドさんは、懐から細い金属製の道具を数本取り出すと、
慣れた手つきで南京錠に差し込み、
カチャカチャと微かな音を立て始めた。
その真剣な横顔は、
まるで精密機械を扱う職人のようだ。
数分後、
カチリ、という小さな音と共に、
南京錠が外れた。
「よし、開いたぞ。
だが、油断するな。
中にも罠が仕掛けられているかもしれん」
俺たちは、音を立てないように慎重に扉を開け、
暗く、カビ臭い地下倉庫の中へと滑り込んだ。
松明の光は使えない。
月明かりと、ギドさんが持っていた
微かな光を放つ特殊な鉱石だけが頼りだ。
地下へと続く、湿った石の階段。
一歩踏み出すごとに、
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
ギドさんの短い足取りは、
意外なほど静かで、確かだった。
階段を降りきると、
そこには、だだっ広い空間が広がっていた。
天井は低く、空気は淀んでいる。
壁際には、埃をかぶった木箱や樽が無造ziłに積まれ、
中央には、大きな木製のテーブルと、
数脚の椅子が置かれていた。
そして、そのテーブルの上には…
まだ新しい、酒のシミと、
何かの書類らしきものが散乱している。
「…間違いない。
ここで、奴らは密会を重ねているんだ」
俺は、息を殺して呟いた。
その時だった。
「誰か来たようだぞ…」
ギドさんが、鋭く囁いた。
彼の尖った耳が、
俺には聞こえない微かな音を捉えたらしい。
俺たちは、咄嗟に積み上げられた樽の影に身を隠す!
ギィィ…と、
先ほど俺たちが入ってきた地下への扉が、
再び軋む音を立てて開いた。
複数の男たちの、低い話し声と足音が近づいてくる。
「…ゴードンの旦那、今宵もご苦労様です」
聞き覚えのある、ねっとりとした声。
『黒蛇商会』の主人の声だ!
「うむ。例のブツは、滞りなく準備できているだろうな?」
そして、あの忌々しい、ゴードンの声!
間違いない、奴らだ!
俺は、樽の隙間から、
息を殺してその様子を窺った。
松明の灯りに照らし出されたのは、
リンドブルム運送ギルドの幹部ゴードンと、
黒蛇商会の主人、
そして、フードを目深にかぶった数人の怪しげな男たち。
その中には、以前リュウガの姿をスケッチしていた、
あの男の姿もあった。
「もちろんですとも、ゴードン様。
今宵の『月の雫』は、極上の品でございます。
これがあれば、王都の貴族様方も、
さぞお喜びになることでしょう」
黒蛇商会の主人が、卑屈な笑みを浮かべながら、
小さな木箱をゴードンに差し出した。
『月の雫』…?
リリアさんが解読した羊皮紙にあった、
禁制品の隠語の一つか!
ゴードンは、満足そうに頷き、
木箱の蓋を少しだけ開け、中身を検分する。
その瞬間、俺の鼻にも、
あの岩山の洞窟で嗅いだ、
甘く、しかし危険な香りが微かに届いた。
間違いない、あれが禁制品だ!
「うむ、確かに極上だ。
これなら、約束通りの金額を支払おう。
次の取引は、新月の夜だ。
場所は…また追って連絡する」
「かしこまりました。
ゴードン様のご期待に沿えるよう、
今後も励ませていただきます」
取引は、あっけなく終わった。
ゴードンは、禁制品の入った木箱を供の者に持たせ、
黒蛇商会の主人から、
ずしりと重そうな金貨の袋を受け取る。
その顔には、満足げな、
そして醜悪な笑みが浮かんでいた。
(今だ…!
この光景を、誰かに…!)
俺は、咄嗟に懐に手を伸ばした。
証拠を残さなければ。
だが、この世界にカメラなんて便利なものはない。
どうすれば…!
その時、俺の足元で、
カラン、と小さな音がした。
しまった! 何かを蹴飛ばしてしまったらしい!
「誰だ!?」
ゴードンの鋭い声が、地下倉庫に響き渡る!
まずい! 見つかった!
フードの男たちが、
一斉に剣を抜き放ち、こちらへ向かってくる!
「小僧! 逃げるぞ!」
ギドさんが叫び、
俺の手を引いて樽の陰から飛び出した!
「お前たちは…『ドラゴン便』の小僧と、
ドワーフの鍛冶屋か!
やはり嗅ぎつけていたか!
生かして帰すな! 皆殺しにしろ!」
ゴードンの怒号が響き渡る!
地下倉庫は、一瞬にして修羅場と化した!
狭い空間で、数人の屈強な男たちに囲まれる!
絶体絶命だ!
「ギドさん、黒煙弾を!」
「おうよ!」
俺たちは、示し合わせたように、
ギドさん特製の黒煙弾を地面に叩きつけた!
バシュゥゥゥッ!!
強烈な黒煙が、一瞬で地下倉庫を満たす!
視界は完全に奪われ、
敵の怒声と、咳き込む音が入り乱れる!
「今のうちに、階段へ!」
俺たちは、煙に紛れて、
地下への階段へと駆け上がろうとする!
だが、敵もさるもの、
手当たり次第に剣を振り回し、
俺たちの退路を塞ごうとしてくる!
「くそっ、こうなったら…!」
俺は、腰に差した剣を抜き放った!
ギルドの悪事を暴くため、
そして、仲間たちと共に生き延びるために!
満月の下の、絶体絶命の脱出劇が、
今、始まろうとしていた!




