第39話 掴んだ欠片
傷ついた翼で飛ぶリュウガの背は、
いつもよりずっと頼りなく、
そして痛々しいほどに震えていた。
風を切る音に混じって、
時折、苦しげな息遣いが聞こえてくる。
そのたびに、俺の胸はナイフで抉られるように痛んだ。
俺自身の肩や腕の傷も、
ズキズキとした鈍い痛みを主張し続けている。
だが、そんなことよりも、
リュウガの苦しげな息遣いの方が、
俺の心を容赦なく締め付けた。
俺のせいだ。俺の判断ミスが、こいつを…!
「もう少しだ、リュウガ…!
もう少しで、隠れ家だ…!
頑張ってくれ…!」
俺は、風の音にかき消されそうな、
絞り出すような声で、
必死に相棒を励まし続けた。
リュウガは、俺の言葉に応えるように、
弱々しく、しかし確かに「グルゥ…」と喉を鳴らす。
その音は、まるで「分かっている」とでも言うように、
俺の心に直接響いた。
どれほどの時間が経っただろうか。
月明かりだけが頼りの夜間飛行は、
普段の何倍も、いや何十倍も長く感じられた。
一刻も早く、リュウガを休ませてやりたい。
その一心だけが、俺を支えていた。
ようやく、見慣れた森の輪郭が、
闇の中にぼんやりと浮かび上がってきた時、
俺は安堵のあまり、
全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。
涙が、熱いものが、目頭に込み上げてくる。
ギドさんが新たに用意してくれた、
崖下の洞窟。
そこが、今の俺たちの唯一の安息の地だ。
あそこまで行けば、ひとまずは…。
リュウガは、最後の力を振り絞るようにして、
洞窟の入り口へと、
まるで滑り込むように着陸した。
その巨体は、ドサリと重い音を立てて地面に横たわり、
ぜぇぜぇと、苦しそうな荒い息を繰り返している。
その姿は、あまりにも痛々しかった。
「リュウガ!
しっかりしろ! 大丈夫か!?」
俺は鞍から転がり落ちるようにして、
リュウガの元へ駆け寄った。
翼の傷口からは、まだじわりと血が滲み、
美しい瑠璃色の鱗は所々剥がれ落ち、
痛々しい赤黒い地肌が覗いている。
あの忌々しい毒蜘蛛どもめ…!
「すまない…本当に、すまない…リュウガ…!」
俺は、リュウガの大きな頭を抱きしめ、
何度も何度も、言葉にならない謝罪を繰り返した。
俺の無謀な行動が、
俺の甘い判断が、
こいつをこんな目に遭わせてしまったのだ。
後悔と自責の念が、津波のように押し寄せる。
リュウガは、そんな俺の頬を、
ザラリとした、しかし温かい舌で優しく舐めた。
その黄金色の瞳は、
潤んでいるようにも見えたが、
確かに「お前のせいじゃない」と、
そう語りかけているようだった。
こいつは、いつだってそうだ。
俺が弱気になっている時、
必ずこうして、俺を励ましてくれる。
その時、洞窟の奥から、
パタパタという軽い足音と、
ドタドタという重い足音が近づいてきた。
松明の灯りと共に、
リリアさんとギドさんが駆け寄ってくるのが見えた。
俺たちが仕掛けた警報装置が作動したのだろう。
「ケンタさん!
リュウガさん!
ご無事でしたか!?
一体何が…そのお怪我は!?」
リリアさんの声は涙で震え、
その手には、既に薬草や清潔な布が
ぎゅっと握られている。
彼女の顔は、心配と恐怖で真っ青だった。
「小僧!
一体全体、何があったというんだ!?
その無様な怪我はどうしたんだ!
それに、リュウガの翼は…!
まさか、ギルドの奴らにやられたのか!?」
ギドさんの顔も、
普段の不機嫌さとは違う、
焦りと、そして抑えきれない怒りに満ちていた。
その目は、まるで獲物を前にした獣のように鋭く光っている。
俺は、荒い息を整えながら、
岩山の洞窟での出来事を、
掻い摘んで、しかし正確に二人に話した。
運送ギルドの隠し財産らしきもの。
そして、おびただしい数の毒蜘蛛の魔獣との死闘。
ギドさんにもらった黒煙弾での、
辛くも九死に一生を得た脱出劇を。
「…というわけで、
なんとか逃げ延びてきたんだ。
だが、リュウガがこんな状態じゃ…
俺のせいで…」
俺が言葉を詰まらせると、
リリアさんは、何も言わずにリュウガの傷口にそっと手を当て、
治癒の魔法だろうか、
淡い、優しい緑色の光で
リュウガの体を優しく包み込み始めた。
「リュウガさん、痛かったでしょう…。
私が、必ず治しますからね…
だから、もう大丈夫ですよ…」
彼女の瞳からは、大粒の涙が止めどなく溢れ、
リュウガの鱗を濡らしていた。
その声は、まるで母親が我が子をあやすように、
愛情に満ちていた。
一方、ギドさんは、
俺が懐から取り出した、
煤と、そして俺自身の血で汚れた数枚の羊皮紙を、
厳しい、しかしどこか期待するような目つきで受け取った。
「…これが、お前が命懸けで持ち帰ってきた
『証拠』とやらか。
どれ、見せてみろ」
ギドさんは、松明の光にかざし、
羊皮紙にびっしりと書き込まれた文字や数字を
一つ一つ丹念に追い始めた。
その表情は、みるみるうちに険しさを増していく。
眉間の皺が、さらに深くなった。
「…これは…!
間違いない、リンドブルム運送ギルドの紋章だ。
そして、この数字と名前の羅列は…
通常の取引記録とは明らかに違う。
まるで、裏帳簿のような…いや、それ以上に生々しい…」
リリアさんも、リュウガの手当てを続けながら、
不安そうにギドさんの手元を覗き込む。
彼女の顔にも、緊張の色が浮かんでいた。
「ギドさん、何か分かりましたか…?
それは、一体…?」
「…ああ。まだ断言はできんがな。
だが、この羊皮紙には、
いくつかの怪しげな商人の名前と、
法外な金額の取引、
そして、おそらくは禁制品であろう品物の名前が、
暗号めいた言葉で、しかし確かに記されている。
もしこれが本物なら…
ゴードンの奴、とんでもない悪事に
手を染めている可能性があるぞ。
これは、ただの不正じゃない…もっと根深い何かだ」
ギドさんの言葉に、
俺とリリアさんは息を呑んだ。
ゴクリと、喉が鳴る音がやけに大きく聞こえる。
「本当に…?
これが、ギルドの不正を暴く証拠に…なるんですか…?」
俺の声は、震えていた。
絶望的な状況の中で掴んだ、
あまりにも細く、しかし確かな希望の糸。
もし、これが本物なら…!
「だが、これだけではまだ弱い」
ギドさんは、厳しい表情を崩さずに言った。
その言葉は、俺たちの僅かな希望に
冷や水を浴びせるようだった。
「これはあくまで『状況証拠』の一つに過ぎん。
ゴードンほどの老獪な男なら、
いくらでも言い逃れをするだろう。
もっと決定的な証拠…
例えば、この裏取引の現物や、
関わった人間の、裏切りようのない証言でもなければ、
奴を追い詰めるのは難しい。
下手に動けば、逆にこちらが窮地に立たされるぞ」
ギドさんの言葉は、
紛れもない現実だった。
俺たちの手にあるのは、まだほんの欠片に過ぎない。
「それでも…!」
俺は、床に落ちていた羊皮紙の切れ端を拾い上げ、
血の滲む手で、強く握りしめた。
「それでも、これは大きな一歩のはずです!
俺たちは、確かに何かを掴んだんです!
諦めるわけにはいきません!
絶対に!」
俺の叫びに、
リリアさんが、涙を拭って顔を上げた。
その瞳には、再び強い光が宿っている。
彼女は、いつだってそうだ。
俺が諦めそうになる時、
必ず、俺よりも強い心で、俺を支えてくれる。
「そうですよ、ケンタさん!
私、この書類、解読してみます!
薬屋の仕事で、古い文字や、
ちょっと変わった薬草の記録に使われる暗号にも
少しは詳しいんです!
もしかしたら、この中に、
もっと重要な情報が隠されているかもしれません!
私に任せてください!」
「リリアさん…!
ありがとう…!」
「フン、威勢だけはいい小僧どもめ。
だが、その目…悪くない」
ギドさんは、ぶっきらぼうに言いながらも、
その口元には、ほんの僅かに、
本当に僅かにだが、笑みが浮かんでいるように見えた。
「まあ、いいだろう。
わしは、リュウガの翼の治療と、
お前たちのギアのさらなる改良に専念する。
あんな投網ごときに、二度と捕まるようなヘマはさせん。
ドワーフの技術の粋を見せてやるわい」
俺たちは、再び顔を見合わせた。
傷つき、疲れ果ててはいたが、
心の中には、新たな、そして熱い闘志が
メラメラと燃え上がっていた。
掴んだ証拠は、まだほんの欠片かもしれない。
だが、それは確かに、
俺たちの震える手に握られた、
未来への、決して手放してはならない希望の欠片なのだ。
「ありがとう、二人とも。
そして、リュウガ…
お前がいてくれなかったら、俺は…」
俺は、静かに、しかし深く寝息を立て始めた相棒の巨体に、
そっと手を置いた。
その温もりが、
その確かな生命の鼓動が、
俺に無限の勇気と力を与えてくれる。
この戦い、まだ終わらせない。
絶対に、終わらせるものか。




