第1話 転移先は物流後進世界!? 元・社畜、異世界を知る
チッ…チッ…チッ…。
無機質な蛍光灯の瞬きが、死に行くセミの鳴き声のように、
やけに耳につく。
午前3時半。
ここは地獄か、あるいはそれに限りなく近いどこか――
物流会社の薄汚れた事務所だ。
俺、佐々木健太、32歳。
肩書は係長だが、実態は魂を削りながら
荷物と伝票とクレームの濁流を捌き続ける、
哀れな社畜ゾンビに過ぎない。
視界の端で、積み上げられた書類の山が、
まるで意思を持ったかのように蠢いている。幻覚だ。
カフェインと疲労で焼き切れた脳が見せる、悪趣味な冗談。
モニターの光は目に突き刺さり、
キーボードを叩く指先は鉛のように重い。
肩も腰も、悲鳴を通り越して無感覚に近い。
『まだか佐々木ぃ!』
上司の怒声が、幻聴となって頭蓋に反響する。
もう何度聞いたか分からない、呪いの言葉。
睡眠? 温かい食事? ふかふかの布団?
そんなものは、この灰色の世界には存在しない。
遠い、遠い、おとぎ話だ。
「…ねむ…」
呟きは、乾いた空気にかき消された。
意識が急速に薄れていく。体が傾ぐ。
まずい、これは本当に、終わりの合図かもしれない。
せめて、せめて人間らしい最期を…。
そんな未練が、ブラックアウトする寸前の脳裏をよぎった刹那――
視界が、真っ白な閃光に焼かれた。
鼓膜を突き破るような轟音。
全身を叩きつける衝撃。
あるいは、それはただの幻覚だったのかもしれない。
次に意識が浮上した時、
頬に触れていたのは、無機質なオフィスの床ではなかった。
ひんやりと湿った土の感触。
指先に絡まる、柔らかな草の葉。
そして、鼻腔を満たすのは、
消毒液や埃の匂いではなく、
むせ返るほどに濃密な、生命力に満ち溢れた緑の香りだった。
「いっ…てぇ……」
呻きながら、ゆっくりと瞼を開ける。
最初に飛び込んできたのは、天井のシミではなかった。
どこまでも、どこまでも続く、
吸い込まれそうなほどに深い蒼穹。
見たこともないほど鮮やかな青。
そして、視界を覆うのは、
天を衝くかのように聳え立つ、巨大な木々。
その幹はビルディングのように太く、
枝葉は空を覆い隠さんばかりに生い茂っている。
木漏れ日が、地面に複雑な光の模様を描き出していた。
「……は?」
理解が、思考が、完全に停止する。
さっきまで、俺は確実にあの灰色の箱の中にいたはずだ。
それがなぜ、こんな…原始の森のど真ん中に?
夢か?
頬をつねる。
痛い。ジンジンと、鈍い痛みが走る。
クソ、現実だ。
「いやいやいや! 展開が急すぎるだろ! 何かのドッキリか!? それとも…」
俺の叫びは、異様なほど静かな森に虚しく響き、
名も知らぬ鳥たちの奇妙な鳴き声に溶けていった。
遠くで、腹の底に響くような、低い獣の咆哮が聞こえた気がした。
…いや、気のせいだ。全力で聞かなかったことにする。
頼むから、気のせいであってくれ。
よれよれのスーツ姿が、この濃密な緑の世界で、
滑稽なほどに浮いている。
スマホを取り出す。当然のように『圏外』。
GPSは『座標取得不能』。
終わってる。完全に、詰んでる。
「ラノベ展開かよ…異世界転移ってやつか?」
トラックに轢かれた記憶はない。
だが、過労死寸前だったのは紛れもない事実だ。
ある意味、この現代社会という名の巨大なシステムに
轢き殺されたようなものかもしれない。
…妙に納得してしまった自分が、少し怖かった。
「…とにかく、人がいる場所を探さないと」
幸い、身体はまだ動く。
不思議と、さっきまでの鉛のような疲労感は薄れていた。
これが異世界転移のボーナスというやつか? ふざけるな。
前職で培った方向感覚(と、染みついた社畜根性)だけを頼りに、
かすかに残る獣道らしきものを辿り始める。
湿った腐葉土を踏みしめる感触。
時折、肌を撫でる、生暖かく湿った風。
耳慣れない虫の声。
そして、背後から常に感じる、
何か巨大なものに見られているような、不気味な静寂。
五感が、嫌というほど研ぎ澄まされているのを感じた。
どれほどの時間、歩き続けただろうか。
空腹と不安で意識が朦朧とし始めた頃、
不意に視界が開けた。
目の前に現れたのは、高い石造りの壁。
そして、その向こうに広がる、
赤茶けた瓦屋根が密集する街並みだった。
「おお…!」
思わず、かすれた声が出た。
まるで、中世ヨーロッパを描いた映画のセット。
いや、それ以上にリアルで、生活感に満ちている。
石畳の道、木組みの家々、そして行き交う人々。
街に足を踏み入れる。
革の鎧を身に着け、腰に剣を吊るした屈強な男。
フードを目深にかぶり、杖をついたローブ姿の老人。
荷物を満載した荷車を引く、たくましい商人風の男。
そして、俺と同じ人間とは明らかに違う、
尖った耳を持つ者や、小柄で髭面の者たちの姿も…。
活気はある。
だが、それは俺が知っている都会の喧騒とは全く異質のものだった。
埃っぽい匂い、家畜の糞尿の匂い、
そして香辛料のような、嗅いだことのない香りが混じり合っている。
スーツ姿の俺は、異物以外の何者でもない。
好奇の視線、訝しむ視線、時には侮蔑するような視線が、
容赦なく突き刺さる。
居心地が悪い、なんてレベルじゃない。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが…」
幸い、言葉は通じるようだ。
人の良さそうな顔立ちの、しかし油断ならない目をした行商風のおじさんを捕まえ、
震える声で尋ねた。
ここが『リンドブルム』という名の都市であること。
この世界が『アースガルド大陸』と呼ばれる広大な土地の一部であること。
そして、剣や魔法、さらにはドラゴンや魔獣といった存在が、
決して空想の産物ではない、厳然たる『現実』であることを知った。
…本当に、異世界だった。
胃のあたりが、キリキリと痛みを訴え始めた。
これから、俺はどうなるんだ…?