4章-2 結界の内と外
宿について寝台に腰を下ろすと、ミリスは大きな溜息をついた。久方ぶりの人の寝床である。自分の寝床でないと回復しないという話もあるが、旅人にとって、特に野宿を厭わない過客ととって、自分の寝床など持っていないも同義である。自分の布団は持っていても、自分の寝床はないのだ。
実際、いつ外敵の襲来があるか判らない野宿において、本当の意味での睡眠を得ることはできない。肉体は回復させられても、精神の疲労は蓄積する一方である。柔らかな蒲団に尻が包まれると、堪えていた疲労が腹の底より湧きあがってくるのだ。
「このまま横になったら眠ってしまいそうです」
「たまには良いかもね」
ウィンジーは寝台の上に座って両足を投げだしながら、難しそうな魔法書を読んでいた。先の話の直後だと当てつけのように思えるが、ウィンジーが宿ですることといえば杖を磨くこと、さもなくば魔法書を読むことである。
ミリスは厚手のローブを畳んで枕元に置いた。
「ウィンジー様は疲れていないのですか?」
「なにに?」
魔法書から目を離さずに答えた。ウィンジーは広げた足の間に、分厚い装丁本を広げている。緑の髪は長旅のあとだというのに、全く乱れていない。その姿は、まるで人形である。耳朶からは真紅の宝玉が下がっている。クレンツェの結晶を見たあとのミリスには判る。その宝玉も魔法に関する石の一種なのだろう。その神秘的で惹きこまれるような輝きは、なによりその証拠である。
「いえ、ハプテキズムの攻撃に抗ったとき、随分とたくさんの魔力を消費していたので」
ウィンジーは黙ったまま、項を一つ捲った。
「クレンツェの結晶があったでしょう」
「あれから魔力を補給したのですか?」
「まあね」
そう応えて、彼女はまた項を捲った。
ミリスは寝台に深く座り直し、居住まいを正した。そうして、あからさまにソワソワし始めた。彼女はそっと隣の寝台に目をやるが、ウィンジーは恬として読書をしていた。そのまま、難度か視線を投げるが、一向に反応を示さない。
布が擦れる音に、紙の捲れる音が混じる。
ミリスは小さく深呼吸をして、心を決めた。
「あ、あの」
「……なに?」
ウィンジーはさらに一項捲ってから、やっと顔をあげた。
「私も、クレンツェの結晶を使えば、魔力量を増やせますか?」
「急にどうしたのさ」
「いえ。この疲労も魔力が足りないせいかと思いまして……」
「魔力に抗うためには魔力しかないからね」
「魔力に抗う?」
「気づいていないの?」
「この街が魔力に満ちているのには、気づいていますが……」
「それは、いつから?」
「街に這入ってから。おそらく、街の結界を跨いだ瞬間から」
「結界は外敵から内を守るのが役目。でも、その本質は内と外を隔てる存在だからね。外から守るということは、内から逃走も阻む。だから、結界の内側にこれだけの魔力が滞留しているんだろうね」
「この疲労感もそのせいですか?」
「そうだろうね。でも、それだけじゃないよ」
「他になにかあるのですか?」
「結界は完璧じゃないからね。結界の外に漏れだす魔力だってあるよ。魔力を隔てる結界のようだからね。漏れだすのは、瘴気ばかりときた」
「……それじゃあ」
「これくらいの瘴気なら平気だと思っていたけど……」
ウィンジーは頭をもたげ、白く艶やかな顎をなでた。
「舐めすぎていたようだね」
足の中央に本を広げたまま、緑の長い髪を前に流した。彼女は俯いて、毛先をくるくると弄んでいる。
「まだ意識していない状態での浸蝕には耐えられないのか」
それが独り言と判るほど、彼女の声色は誰にも向けられていなかった。あえて特定の人物をあげるなら、それは自分自身、つまりウィンジーということになるのだろう。しかし、その言葉を聞いた以上、ミリスは考えずにいられなかった。
「ここは結界を張ったから、少しは楽になると思うけどね」
「ありがとうございます」
その礼には疲労が滲んでいたから、瘴気の毒は深く彼女を蝕んでいたと見える。しかし安心したように深呼吸を始めるミリスに、ウィンジーは冷たい目線を向けた。
「結界なんだから浄化する機能はないよ。侵入がない分、外よりは薄くなっているだけさ」
なにせ私の結界だから、破られることはないよ。ウィンジーは不敵に微笑した。
「辛いなら、さっさと横になることだね」
その言葉に甘えて、ミリスはパタリと布団に倒れこんだ。すると、自然に胸の浅いところから息が溢れてくる。おのずから瞼が下がり、視界が途切れ途切れになる。
隣で衣擦れ音がしてもミリスの意識には上ってこない。ウィンジーは立ちあがって、散らかしたものの整理を始めた。しばらくすると、寝台に戻り、開いたままの本を指で撫でた。
「あ。あと――」
分厚い本が閉じられる音に続いて、布団の上に重たいものが着地した。ウィンジーは長い緑の髪に手櫛をいれている。
「クレンツェの結晶は直接摂取すると、魔力総量の少ない人間は破裂するよ」