序章7
2023/11/8 加筆修正
2024/4/29 加筆修正
ミリスは聖樹の杖を抱えながら森へでかけた。最短でない獣道を、俯きがちに進みながら、呼吸を整える。
「相手は熊の魔獣。魔獣は総じて魔力操作が不得意で、身体強化に特化した近接戦闘型が多い。魔法使い一人で距離を詰められたら、それは死を意味する」
ミリスは何度目かの復唱をする。彼女はセンリョクにつれられて害獣退治の一環として魔獣を討伐した経験があるとはいえ、あくまでも補助的な役割しか担っていないというか、その場にいたというだけだった。今回の相手、デモンウルススはミリスが仙人から聞いた話の通りなら少し格上の魔法使いよりずっと強敵だ。それに相手は魔獣なのだ。知能はあっても頭脳戦はしない。これは駆引きが通用しないことを意味する。
野生の狩猟は獲物と認識すれば、あとは時機を見計らうくらいしか思考の余地がない。時期を見損なってもらうには、必要以上に警戒されるか、必要以上に見縊られるか、そのどちらかしかない。しかしミリスは魔獣相手に格上と誤認させるような術は持ちあわせていないし、ウィンジーが魔獣を呼んだように獲物と認識される術も持っていなかった。
ミリスは技術もなければ経験も不足していた。勝ち筋を見出せるとすれば、ウィンジーからのたった一つの助言「間合の管理だけは徹底すること」それだけだった。
ミリスは張りだした木の根に腰をかけた。
「これは、無理難題というものです」
大きく溜息をついた。そうして来た道を顧みるが、当然のごとく人の気配はない。ここは村人が立ち寄るようなところではない。もし気配があればそれはウィンジーかセンリョクのものだ。しかし、その淡く儚い期待は打ち砕かれた。
けれども今更引きかえすことはできない。
ここで怖気づく人をウィンジーは旅の伴侶として認めないだろう。それは短い付きあいのミリスでも確信している。それに、いつまでもウィンジーに山人の生活を送らせているという事実を負担に感じていた。彼女が取れる選択肢は多くなかった。
ミリスはまず、広場の中心に杖を向け念じる。しばらくそうしていると、人の背丈以上の大穴ができあがった。そこへ格子状に枝を張り、大きな葉を乗せる。その上に土を薄っすらと被せて、最後に魔法を使って苔を生すことも忘れない。これで落とし穴の完成だ。
次に攻撃の元手となる石を用意する。幸いなことに穴を掘る過程で手頃な石はいくつもでてきた。生成魔法は魔力の消費が激し過ぎる。今のミリスには濫用はできない。魔法攻撃は魔力を弾として撃ちだす以上、無駄撃ちはしたくない。そのための小石である。
それから……。
あの一度切りでウィンジーの特訓は終わった。しかし、ミリスはそれきりで修行を不精したわけではない。あれからも毎日魔力を磨いてきたのだ。少なくとも攻撃は通る筈だ。それはウィンジーからもお墨付きをもらっていた。つまり勝機は存在するのだ。
準備を終えると、陽は傾き始めていた。夜は獣たちの時間だ。山で暮らすミリスは、身をもって知っていた。
「これくらいかな」
ミリスは隠れた大穴を見下ろした。突貫なだけあって目を凝らせば境がなんとなく判る。そのために視力は邪魔だった。これは諸刃の剣だが、リスクを背負わずして勝機を掴めると確信できるほどミリスは自身の実力を高く評価していない。それに、時間経過と共に大穴の周囲に漂っていた魔力残滓も十分に散っている。
あとはデモンウルススを呼べば全ての準備が終了する。
『獲物を探すには、獲物から獲物だと誤認してもらうのが手っ取り早い』
ミリスは、その言葉を思いだした。とはいっても、自ら獲物になるという感覚はよく判らない。狩りやすい対象だと認識してもらうという理窟は判るが、魔獣の感性など理解のしようがない。
「美味しそうに見えれば良いのかな」
ミリスは懐に忍ばせた香辛料を見た。炙った肉にこれを振れば食欲を誘う芳香の完成だ。かといって、ミリスが火にかかるわけにはいかない。山居に肉の貯蓄は貴重だ。肉を勝手に持ちだすことはできなかった。
ミリスは大きく溜息をついた。
夜は獣たちの時間だ。今から狩りをするのは気が乗らない。その溜息だった。そのとき、背後に強力な気配が後方に出現した。ミリスは反射的に杖を構えた。
突進の構えを見せてはいるが、まだ走りだしてはいない。ミリスは自らの躰を飛ばし、魔獣と距離を取った。黄緑色の光点が二つ、闇の中に浮かんでいる。ミリスは二点の中心、眉間があるだろう位置に照準を合わせ、杖先に魔力を集中する。これは牽制だ。
ミリスは細かに動揺する杖先を定めながら深呼吸をした。
硬直した間合は、魔獣が藪に双眸を隠すことで解消された。枝葉がカサカサと騒いでいる。ミリスは杖で物音の鳴るほうをなぞった。
「姿を隠しても居場所は判っていますよ」
虚勢を張ったが、その声は微かに震えていた。代わりに手の震えは収まり、照準は藪から一刻も外れない。
中心でミリスは杖を構えたまま魔獣を追って、ちょうど一周した。そのとき、突風が吹き抜けた。そこら中の樹々が揺れ、周囲の藪が一斉に合唱を始めた。それが魔獣の気配を完全に消失させた。
その瞬間、ミリスは動きを止めた。否、動けなかった。
杖を正面に構えたまま感覚を研ぎ澄ませる。全身の肌が薄らと粟立つ。悪寒にも似たそれが少し心地好かった。しかしミリスの探知能力では魔獣の位置を補足できなかった。
その諦めからの判断は早かった。まずミリスは頭上に向かって魔法を放った。それを隙にしないために、広場の外周に並べた小石を藪に向かって放射した。折角集めた石だったが、躊躇はしなかった。戦闘において無駄は命取りになるが、逡巡は死に直結する。
簡易的な全方位攻撃だったが、その判断は正しかった。草木に当たる音とは異なる鈍い音が右後ろから鳴った。ミリスは振りかえりざまに魔法を放った。魔獣はそれを軽々と跳び越え、上空からミリスに向かって落下してくる。
藪から全身を現したそれはミリスの身長の二倍を悠に超える巨躯の持ち主だった。あれが落下してくるというだけで人間には致命傷になる。ミリスは魔法で自らの躰を横へ弾いた。空中で姿勢を整え、魔獣の着地点に全力の魔法を放出する。
純白の光弾が闇夜を引き裂いた。
魔獣の着地と同時に光が弾ける。純粋な白の光は夜目には眩しかった。
眩惑から解放されたミリスは、腰の辺りの体毛が焦げた大熊を見た。彼女は目を大きく見開いた。空中でバランスを取るため、溜めに全身全霊を注ぎこめなかったとはいえ、全力の攻撃だった。
「これは、少しまずいですね」
ミリスは乾いた笑い声が漏れた。
低い唸り声をあげながら振りかえったデモンウルススは獲物を睨む目ではなく、敵を見据える目をしていた。そこに強者としての驕りはなかった。ミリスは今日初めての恐怖を覚えた。




