3章-16 夜の寝顔
2024/10/20 加筆修正
ほんの少し冷たい風に撫でられ目を開くと、留紺色の空の中で孤独な黄金色の真円が無数に揺らめく木葉をものともせずに輝いていた。その姿はあまりにも淋しくて、ミリスは咄嗟に目を逸らした。
別になにかを探して横を向いたわけではない。けれども温もりの残り香のあるほうに誘われたのは否めなかった。そこにあるべき人がいなかったから、押しつけがましいと判っていても未練を感じてしまう。
なにとはなく無性に右隣りが気になったから。ミリスはそう自信にいいきかせた。
しかし人影の代わりに佇んでいた夜の陰と視線が交差したせいで、躰が思うように動かなかった。夜の残滓があることは判っていたけれども、思ったよりも深い闇をいざ目の当たりにすると杖を呼んで空を掴んでしまったかのような喪失感があった。
そうすると自己暗示も意味がない。不意に玉輪が翳ったから、ミリスは完全に夜の陰に囚われてしまった。
まるで世界から光が去ったかのようだった。
夜闇は昼行性物にとって不吉の象徴である。当然、良い記憶を想起させることはない。それは旅人たるミリスも例外ではなかった。腹の底から立ち昇っている零台を握るような感覚の銘は、不安だった。
黙って三角に座っていたミリスに、横から声があった。
「どうかしたの?」
おもむろに顔をあげると、そこにはウィンジーがいた。
「どこにいたのですか?」
「ちょっとね」
「……もう」
「日課だよ。そんなに怒らないでよ」
他人の機微に疎いウィンジーも長い二人旅の間に拗ねているミリスを見分けられるようになっていた。けれども慰めの言葉をウィンジーがかけることはなかった。彼女は雲の向こうの明かりを見あげた。
ミリスも倣って天を見あげると自然に泪が滲んでくる。ウィンジーに泣いていると思われたくなくて、ミリスは目元を拭いながら訊ねた。
「また散歩ですか」
今日に限らず、ウィンジーは夜になるとどこかへ姿を消すことがある。最近になって「またか」と思う程度には慣れてきていたのだが、この森の雰囲気のせいか、ミリスは普段のように受けとめることができなかった。
夜目に慣れるように、闇にも慣れてくれれば良いのに。その気持ちを溜息に乗せて、またミリスは俯いた。
「まだ夜明けまで少しあるよ」
「ウィンジー様のせいで眠気が去ってしまいました」
「私のせい?」
「そうです」
ミリスは立ちあがった。
その自然の先、木蔭の中を人影が過った。こんな野生動物でさえも眠りにつきそうな闇夜にも関わらず。それだけの事実で自然を渡り歩く旅人の注意を引きつけるには十分だった。
「誰かかいます」
彼女は自然に声を低めた。その声は風に揺らめく葉音の音程に紛れるけれども、ウィンジーは正確に彼女の言葉を聞き分ける。
ミリスが対象を指差すが早いか、ウィンジーは人影のあった方向を睨んだ。返答を聞こうとミリスは横目でウィンジーを窺った。この場で声を発するのをためらわれるから、もともと声を発するつもりではなかったが、矢が放たれる寸前のように張りつめたウィンジーの視線に、不意の言葉をつまらせてしまった。
ウィンジーにとっては横からのミリスの眺めなど微風も同然のようで、その鋩は寸毫も震えることはない。それが射止める先が気になって、ミリスは自然に仮想の射線をなぞっていた。
「……人……」
零れるような吐息が言葉になった。
誰か、その言葉を最初に選んだ時点で彼女はその結果を予感していた。けれども、いざ事実を目の当たりにすると戸惑いはあった。彼女は動揺するままに杖を呼び、胸の前で握り締めた。
――その刹那。
両手で握っていたミリス杖先を、一矢が正確に貫いた。ミリスは胸を貫かれた錯覚に陥って、その矢の刺さっている筈の先を見下ろすと、頑丈な石杖を前に拮抗するように矢が硬直していた。矢はしばらくの歯向かったのち、萎れた花のように力なく落下した。
そこからのウィンジーの行動は速かった。
ミリスが足元に転がった矢を呆然と見つめるうちに、ウィンジーは人影相手に距離をつめていた。いつの間にか掴んでいた短杖を喉仏につきたて、老人を一気に押し倒す。まさに電光石火の一幕だった。
雲間から覗いた黄金の光が、構えられた鉾の鋩のようなウィンジーの横顔を照らした。
やっと顔をあげたミリスは、あまりにも美しい横顔に、力なく横たわる翁の姿は目に這入っていなかった。




