3章-2 恐怖の森
2024/1/1 加筆修正
2024/9/23 加筆修正
ミリスはその名を知っている。そのような気がしてならなかった。けれども、いくら思いだそうと頭を捻ろうが、その感覚は朧げな靄のままで輪郭を表すことはなかった。
「永劫のハプテキズム」
改めて復唱してみると、よりその感覚が強固なものとなる。けれども口には馴染まず、初めて発音する言葉だという気もしてくる。その背反とした二つに挟まれる不思議な体験も、また既知の感覚に思えてならなかった。
地を焼くような陽射しが鬱蒼とした木葉に遮られて、歓びのない木漏れ日として足元を照らしている。先には怪奇が黙座している。その、いかにも不穏な空気にミリスは今すぐにでも引きかえしたくなった。けれども旅人としてのウィンジーは往路をそのまま帰ることはない。ならば、と別の路次に進もうと思っても濃密な叢林が道を違えることを許さなかった。
ただ黙って歩いていても気は曇るばかりである。しかし他にできることといえば、奇妙な感覚の正体について思いを馳せるくらいのものだった。その感覚の正体も突きとめたところで、気持ちが晴れ渡らないことは判っていた。
思考に耽って逃避していたが、現況はそれを許し続けるほど優しくはなかった。
発狂を誘うような悲鳴が四面から響き始める。荒々しい鯨波は得体の知れないという印象ばかりを強烈に刻む。けれども、ほんの微か人の声を思わせる響きがあり、それが余計に気味の悪さを際立たせた。
ミリスは全身が粟立つのを堪えることができなかった。どうしても叫びたい衝動にかられた。恐怖とは少し違う。叫ばざるを得なかったのだ。
「キャアアアァァ――……」
彼女はそのまま胸を抑えて蹲った。叫び続けたせいで頭から一切が抜け落ちたような感覚だった。泥濘のように重たい空気を吸って頭に満たしていく。吸おう吸おうという気ばかりが急いて、今にも窒息しそうだった。
落ちついて――
ミリスの背中を摩りながら、ウィンジーが耳元で囁いた。けれども過敏になった背中は、愛撫さながらの優しい手つきさえも痛みを覚えるほどだった。
「ほら、ゆっくり息を吐いて」
それは風に吹かれる中で、葉に静まれと命ずるようなものだった。空気を吐吞する感覚が漸次に短くなり、呼吸は空転したように擦れた音を立てている。
「落ちついて」
ウィンジーが囁いた。
喧噪の中ではウィンジーの柔らかな声でさえも耳障りに思える。ミリスは半ば反射的に耳を塞いでいた。ウィンジーはまだなにか話しかけている。しかし堰かれた耳にとっては、それも籠った音の一つでしかなかった。それにも関わらず、喚叫声は堰の内側でけたたましく唸っている。ミリスはそれに抗うようにまた絶叫した。
ウィンジーは外套から短杖を抜きとり、その先端を小さく振った。杖先が淡い燈火が生まれ、綿が舞うように二人を包みこんだ。すると、先ほどまで荒かった呼吸の角が取れ始める。鈍重な空気も少し軽く感じられた。
ミリスは今までの焦躁が嘘のように落ちつき始めている自分に気がついた。
「これは……」
その声は大きく上擦った。心は早くも鎮まり始めていたが、まだ呼吸は整っていなかったのだ。やっと上体を起こしたミリスの隣で、唐突になにかが弾けた。それと同時にウィンジーの鋭い喝が響いた。
「……伏せて!」
ウィンジーの手中が短杖から聖樹の杖に入れ替わっていた。彼女はそれを斜に構え、警戒するように視線を配った。
「敵襲かも知れない」
蟲のように小さな声でウィンジーがいった。
「防御は私が……」
その提案に対するウィンジーの返答は、ある意味で的確だった。顔をあげかけたミリスの頭を抑え、自らの魔法で無色の障壁を展開した。
――瞬間、巨大な音叉を叩いたような凄絶な爆音が響いた。それは和らいだ喧噪を完全に消し飛ばした。
衝撃を受けた障壁が虹色の光沢を得て煌めいている。それに驚いたのはウィンジーだった。彼女の障壁は基本が多重障壁で、内側ほど強度のものを張っている。ウィンジーの高度な魔力調整がなせる業である。それによって攻撃の威力を測るのだが、一層も割れないとなれば、それは攻撃としての性質を有していない。
「これは……?」
ウィンジーをもってしてもそれがなにであるか判らなかった。
障壁の向こうでは土煙だけが障壁に沿うように漂っていた。